第30回 地獄について

 昨日の試験の最後の答えには感動したものが多かった。ぜひ、答案用紙は保存しておいて、10年後に読んでください。それでは本題に移ります。

第四章;続あの世についてのカトリックの教え。地獄とは。

 14世紀のイタリア人ダンテの『神曲』(Divine Comedy)という本があります。この本はイタリアルネッサンスの代表的な本で、ダンテがベルギリウスというロ−マ時代の詩人に連れられて地獄、煉獄、天国を見ていくというスト−リ−です。(と偉そうに言いますが私も地獄篇のおもしろい箇所を拾い読みしただけです)。私たちもこの順番に見ていきたいと思います。

 カトリック教会が地獄について教えていることは次のことです。 地獄は存在する。 それは永遠である。 その苦しみは二つ。神を見ないことと感覚的な苦しみ。 恩寵を持たない状態で、悔い改めずに死んだ霊魂が地獄に落ちる。

 これから、これらの教えを説明したいのですが、以下は神学者たちの考えで、上の四つのことだけがカトリック教会の教義(信じるべき教え)です。

 まず、地獄に行く魂とはどのような人か。それは一言で言うと、愛を持たなかった人と考えられる。人間の心を家と考えてください。ある人は家の扉を開いて他の人を入れてくれます。これは他人を愛する人です。他方、誰に対しても扉を決して開かない人もいます。困っている人を見て、自分がしたいことがあるのにその人を助けてくれる人、その人は心の扉を開く人です。それに反して、自分の時間、好み、力、才能などはぜ・ん・ぶ自分のためにのみ使う、他人のためには一切の犠牲はしないという人もいます。地獄とは、そのような生き方をした人が行くところ。他人に対して愛の変わりに、無関心や憎しみのみをもって生きた人が、狭いところにぎゅうぎゅう詰めにされたところと想像したら分かり易いかも知れません。オェ(吐きそうになること)。互いに憎しみ会っている二人は、この世では顔も見たくないので、遠くに離れて住むようにしますよね。でも、地獄ではそうは行かない。ぴったりくっついて顔を横に身ながら生きるわけ。オェ。人間は神の被造物ですから、人間を憎む人は結局神を憎んでいることになる。そこで審判のとき神を見ると、神から離れたいと思うわけです。

 地獄の苦しみについて。地獄の苦しみは、神学者によれば二つある。一つは神を見ないこと。もう一つは何かの感覚的な苦しみで、聖書には火で焼かれる苦しみと言われています。こう言うと、「二つ目は恐いけど、一つ目、つまり神様を見ないことは別に何も苦しいことはないんじゃないの」と考えるでしょう。ところが、実は一つ目の方がずっと苦しいらしいのです。なぜか。それは、この地上では私たちは神様についてほんの一部しか知らないので、それがどれほど素晴らしいかが分からない。そこで、この世では神様を知らずに生きても別に大した不便は感じないわけです。けど、霊魂が体から離れて神を直接見ると、その美しさ(神は美そのもの、善そのもの、真そのもの)など完全性を目の当たりにすると、それに引きつけられざるを得ないわけ。地獄に行く魂は、神に引きつけられながら、それを手にすることができないので魂が引き裂かれるように感じると言われます。 前にも言った比較ですが、6才の子供に「人を愛し、人から愛されるとは素晴らしいよ」と言っても、「そんなことより、飴玉をしゃぶる方がよか」と言うでしょう。このようで生きている人間は、神の愛よりお金や快楽や名誉の方に強く引きつけられるのですが、真の神の姿を見れば、それらは芥(ごみ)のように見えるはず。

 感覚的な苦しみは、聖書にあるように火であると考えられます。しかし、聖書には地獄の風景を描いた箇所はありません。ただ、ある人たちに神様が特別に地獄を見せた、と言われることはあります(こう言うのを私的啓示と言います。別に信者でも信じる義務はありません)。例えば、1917年ポルトガルのファティマという村でマリア様が出現されたと言われているのですが、あるときマリア様はルチアという女の子(当時10才。この方は後にシスタ−になって今も健在です)に地獄を見せたそうです。それは火の海でした(詳しいことを知りたければ『ファチマの牧童』、88ぺ−ジを参照)。また、16世紀に聖テレジアも同じ経験をして、その様子を少し述べてから、「ここで私が感じたことは、ほんのわずかでもそれを想像させこともできませんし、人は決してそれを理解できないでしょう」と言っています(興味があれば、『イエズスの聖テレジア自叙伝』、中央出版社、401−402ペ−ジを参照)。

 地獄が永遠であることについて。「神様が愛深い御方なら、どうして永遠に人を苦しめることを許されるのか」とか、「人間は有限の存在なのに、無限の罰を受けるに値するような悪事ができるのか」などという反論があります。教会の中でも3世紀に出た有名な神学者オリゲネスという人は、「地獄に行った魂も結局浄化を受けた後天国へ行く」と考えたのですが、この説は認められませんでした。なぜか。それはイエス様が、余りにはっきりとしかも何度も地獄も天国も永遠であると言われたからです。教会は地獄について勝手に決めることはできません。ただ、イエス様の教えを伝えるだけです。

 それにしても、永遠の罰は神の愛に反するというのは結構説得力がある。けどしかし、神は愛であると同時に正義である、ことも忘れてはいけない。また、最低の極悪人でも、死ぬ瞬間に「神様、お赦しください」と悔い改めれば赦されることも。もし、ユダが最後の瞬間に赦しを願っていたら救われているわけです。このことは無限の愛の現れだとは言えませんかね。例えば、60年間ずっと君に「あほばかまぬけ、おたんこなす、死ね」と悪口を言い続けていた人が、死ぬ間際に「赦してくれ」と言ったとすると、君は赦せますか。他方、赦しを願わない人を神様が赦せないというもの、少し考えればすぐ分かる。というのは赦しを願わない人に、「赦してやろう」と言っても、「なんで私を赦しでくれるって言うの。私は悪いことしてへんのに」と言い返されるでしょう。

 死ぬ直前に自分の非を認めて赦しを願うことは、普段から悪いことをしたときにそれを認めない人には難しいことかと思います。まず、自分に正直になりましょう。


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