松川暢男先生からは,NHK長崎児童合唱団・長崎市中央公民館の少年少女合唱団講座のほかにも “ユース・コール” という合唱団があったことを教えていただきました.
ユース・コールは1970年代の後半に5年間ほどありました.当時,松川先生が指導されていた長崎市立山里中学校音楽クラブ(*)の卒業生が高校にすすんださいに “中学生まで合唱を楽しめたが,高校に入学したらそのようなクラブがない” という声があがり,それにこたえて長崎市中央公民館の講座としてユース・コールがつくられました.
この時代,長崎市内の高校では,長崎東・長崎西・長崎南・長崎北の4高校に混声の合唱部(名前はコーラス部または音楽部)があり,いくつかの女子高にも合唱部(当然,女声合唱)がありましたが,男子高を中心に合唱部のない学校がいくつもありました.ちなみに,いま,東西南北4高校では合唱部自体がなくなったか,あっても女声合唱になっていて,長崎市内高校の混声合唱は全滅しています.
*県外のコンクールなどに出場するようになってから,ほかの県の学校にあわせて “長崎市立山里中学校合唱団” の名前をつかいました.
ユース・コールの団員のほとんどは,中学生まで合唱をやってきて,高校にすすんでから合唱をする場がないという高校生で,山里中学校以外の卒業生も数人参加していました.団員数については松川先生はよく覚えておられないということですが,男女比は6:4ぐらいだったそうです.ほとんどの団員は高校時代までの活動でした.
ユースコールのレパートリーは中学生・高校生に愛唱されていた曲が中心でした.指導は松川先生おひとりで担当され,ステージにたつときにはピアニストをたのんでいたそうです.発表の場は,長崎県合唱連盟の “合唱祭”(合唱連盟の公式サイトには1976年と1977年の出演記録がでています) と長崎市音楽協会?の“長崎市民音楽祭”でした.
その後,松川先生が純心女子短期大学にうつられ,山里中学校のクラブがおとろえたことで,ユース・コールの活動も自然に消えてしまいました.これをひきついで,中央公民館のかたの力添えにより,少年少女合唱団(いまの長崎少年少女合唱団はそのころ “長崎県長崎少年合唱団” という名前でした)がつくられました.
“自分もユース・コールに入って活動していた” というかたがおられましたら,ぜひ体験談をおよせください.ここで紹介したいと思います(ニックネームでもOKです).
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