〜漆黒の空間〜

 塗りつけられたような漆黒の空間に、光が明滅する。
 光に浮かぶのはあるいは灰色のビル街であったり、あるいは原始の形を留めた森林であったり、あるいは乾ききった荒野であったり……すべて《彼》本来が見ることも触れることも叶わなかった世界だが、今はそこがいかなる世界でいかなる人間たちが蠢いているのか絵本を読むかのように容易に分かる。醜悪極まりない絵本ではあるが……。
 男はそれらに目もくれることなく、まっすぐに一点を目指す。
 その気になれば一瞬で辿り着ける。だが、そこまで急く必要もない。ないはずだ。
 無意識に迷いが生じ、その道のりを緩慢な、長いものへと変えていく。

 下らない。

 男は今一度意識を集中させる。
 退屈しのぎになるかと思ったが、何かを焦っている自分の愚かさにうんざりする。

 ぽつんと足元に現れたのは一人の女。
 人形のように生気の欠片もなく、ただそこにある。

「……死体か……?」
 我知らず、ぽつりと男が呟くと、人形がかすかに動いた。男は軽く眉を上げる。
「生きている……か。まあ、どちらにせよ長くはあるまい」
 女は確かに人形と見まごう程完全に疲弊し、むしろ生きているのが不思議なほどだった。
「死の間際にここに迷い込むのはよくあることだ……死は絶望に近いからな……」
 この世界がいかなる場所か、彼自身にも完全に把握できているわけではない。それほどに広く、深い虚無は心地よくもあるし途方も無くおぞましい。
 男は女を乱暴に抱え上げるとその顔を覗き込んだ。

「!」

 足元に突然空間が広がり、男を飲み込む。

「くっ」
 男は抵抗しようとその背から禍々しき深紅の翼を広げる。しかしねっとりと伸びてきた漆黒の触手が絡めとり、その翼を完全に封じ込める。
「……私に歯向かうというのか……我が内にあり、我が外にある《虚無》よ……!」
 面白い。いい退屈しのぎになりそうだ。
 いままで面白そうな人間を捕らえ招くことはあっても自らが出向くことは無かった。
 いかなる世界に落とそうとしているのか……しばらく付き合ってやろう。

 男はにやりと口の端を上げる。
 吊り上ったそれは、愉悦に歪みきった魔性の微笑みでしかなかった。