〜深い森の中〜
男が辿りついたのは深い森の中だ。その空気や光景はかつての自分がいた世界に酷似していて懐かしさと同時に疎ましさが蘇る。
しばしあたりを見やる。
よく似ている。感知できる《時代》からしても……ほぼ同時期。おそらく近隣の国だろう。
鳥の囀りや梢を渡る風の音……久しく耳にしていないそれは、今の自分にはなんの癒しも齎さなかった。
むしろ……かすかに捕らえた争う物音にぞくっと心が躍るのを感じる。
欲望をむき出しにした男たちが3人。その視線は一つの方向に注がれている。
ぐっと唇を真一文字に引き締め、男たちを威嚇しているは……か細く、弱々しい女。
少女というには大人びているが女性というには未熟。およそ森を渡るに相応しくない、神官のようなドレスを身にまとい、杓杖を手にしているが、武器には程遠い。
下卑た笑い声を口元に浮かべながら、じりじりと女を追い込む。
一人が欲望を抑えられなくなったのか、乱暴に手を突き出す。
バシィッ!
青白い閃光が男の手を打つ。晴れ渡る空から突然雷が落ちるなどと考えられない。それは紛れも無い霆の魔法だ。
(威力はなかなのものだな……あの程度の人間ならば排除できよう……だが)
狙いは定まっていない。狙うのであれば男自身を狙ってしまえばいいはずだ。
(それができないとは……駆け出しの魔道士といったところか)
駆け出しの魔道士。
ちくりと、心の奥に小さく刺さる言葉をゆるく首を振って追い払うと、再び経過を傍観する。
男たちも……傍観者よりかなり遅れた速度ではあるが状況を理解したようだ。
威力はあるが狙いは定められない。ならば魔法をかける前に……一斉に男たちが襲い掛かる。
(……!)
……声を、聞いた。
傍観者は自分自身でも驚くほど、疾風のごとく女と男たちの間に割って入り、男たちを跳ね除ける。
「なっ、なんだてめぇはっ。どこから出てきやがった」
「そいつは俺たちの獲物だ」
「横取りするつもりかよ!」
地面に強かに打ちつけられた男たちは、三者三様に傍観者だった男を罵倒するが、その程度の低さに相手をするのも馬鹿馬鹿しい。
「消えろ。そうすれば命までは取らぬ」
絶海の烈風よりなお冷たき声に男たちは震え上がる。しかし、目の前の上物のエサを逃したままでは空腹が満たされない。
「お前のほうこそ消えな、ニーチャン。威勢がいいのは結構だが、相手をよく見ることだ」
「つまらない正義感でケガすることもないだろうよ」
男たちは次々に獲物を取り出し、身構える。
「そうだな」
あっさりとした応えに、男たちはへへっと愉悦に浸る。
「つまらぬ正義感で貴様らのようなクズを生かしておくこともないか」
驚く暇こそあれ、さっと何かを払いのけるように手を動かすと、男たちは一瞬で全身から血飛沫を上げて絶命した。
男たちの断末魔に呆然としたままの女はそのままの面持ちでぽかんと中空を見つめている。
その様子に男はついぞ吐いたことのないような溜め息を吐いた。
「一応、助けたのだ。礼の一つぐらいはあってもいいのではないか?」
抑揚の無い男の言葉に、女ははっとなって口をぱくぱくとさせる。
無理も無い。常人であればいくら自分を貶めようとした人間であれ目の前で惨殺されれば恐慌状態になるだろう。しばらく待ってやるが……悲鳴の一つも上げないことに男がいぶかしむと、女も打たれたように口元に手をやる。
……もう一度ゆっくりと、女は口を動かす。
「………」
言葉は、ない。それどころか吐き出される呼気の音すらもない。
男は再びため息をつく。
ショックで一時的に言葉を失うという現象はある。だがこの女の場合呻き声はおろか呼吸の音さえもしない。
興味深い事柄ではあるが……しかし。
(そのうち勝手に治るだろう。しかし引きずり込まれるままに来てみたものの……たいした収穫もなかったな)
くるりと踵を返し、戻ろうとしたが……もう一つ気になる点を思い出し、振り返る。
女はゆっくりと近くの木に縋るようにして様にして立ち上がろうとしていた。その動きの緩慢さと危うさに……確信する。
狙いは、力不足ゆえに定められないのではない。
「目が見えないようだな」
冷淡な宣告に女はびくりと身じろぎする。
おそらく先ほどの男たちもそのことに気づき、余計に野獣の心が刺激されたことだろう。魔法を使うのは誤算だっただろうが、狙いは定められないのだから威嚇以上のことはできない。
女は再び同じことが繰り返されることを悟り、再び杖を握り締める。
「よせ。お前のような面倒な女を相手にするほど飢えてはいない」
命中率はともかく、威力は男が認めるほどのもの。うかつに当たれば男も無傷ではすまない。
それでも女は警戒を解かない。
きっと眦鋭く睨みをきかせているものの……その方向は的外れで、傍から見れば滑稽ですらある。
しばらく風渡る音だけが場を支配する。
男はその間、ずっと女を観察していた。
間違いない。
あの漆黒の中、生死の境を彷徨っていた女だ。あの時と違うのは……その瞳に、全身に輝くような生命の光を放っていることだけ。
透き通るような白い肌と、腰まで届く清流に似た淡い水色の髪。
どこにいるか分からない「敵」を睨んでいる瞳は天高く澄み切った空に似た青色。
きりっと結ばれた唇は力を強く入れているからなのか、熟れた果実のように瑞々しい紅色をしている。
思わず手を伸ばしたくなるほどに美しく整った容貌は怯え、それでも懸命に自分の身を守ろうと必死になっている。その表情は、《他者》を思いやる心を忘れた男にさえも狂おしいものに見える。
こんな気持ちになったのは……いつだったか。
忌まわしい記憶が閃光となって過ぎる。
ぐっと知らずのうちに呻き声が喉の奥から沸き起こる。それに反応した女がきょとんとした面持ちを浮かべる。
おろおろと辺りを見回し、唇の動きが……「大丈夫ですか」と気遣う言葉を紡いでいるのが見えた。
(馬鹿な……)
飢えてはいない、そう伝えた。
その言葉を本気にしていないからこそ、警戒していたのだろう女が、暢気に自分の心配をしている。
(能天気な女だ……そもそもこんな森を一人で……)
・・・一人で?
辺りは人気の無い、街道から少し逸れた森の中。どう見ても女の姿は一人旅に向いていない。まして大抵の魔道士はその呪文詠唱や精神集中のために隙ができる。一人ではまず行動しない。
何より、言葉も視力も失っている女が一人でこんなところにいるのが不自然極まりない。
「女、何故こんなところに一人でいる」
詰問するように問いかけに、女はぶんぶんと首を振る。
「こんな……と言っても、お前には見えないのだったな。人気の無い森の中を一人でフラフラしていれば襲ってくださいと書いて歩いているようなものだ」
揶揄するような言葉に、ぶんぶんと再び強く頭を振るが、しばらくして女は何か決意したのか、どこともなくお辞儀をすると、ゆっくりと歩き始めた。
おそらく男に礼をしたつもりなのだろうが、あさっての方向に向かっていたので男には今一つ意味を掴みかねた。
「おい」
乱暴に女の腕を掴み引き止める。たたらを踏んだ女は苦痛に顔を歪めた。掴んだといってもそんな顔になるほど力はこめていない。ならばこれから起こりうることへの恐怖だろうか。
「だから……」
何もしないと言おうとして、女が片足を庇っていることに気づいた。
何故自分が森の中にいるのか分かっていない。
言葉どころか音も失っている。
目は何も捉えられない。
おまけに……足は捻挫しているようだ。
なるほど、漆黒の世界が導いただけのことはある。ここまでいろんなものを失った女を寄越すとはたいしたものだ。
さらにこんな状況でも、どこかに向かって行こうとしている。
その意志の強さは……打ち砕くに十分な価値がある。
面白い。しばし面倒を見てみるとしよう。
全てを取り戻したとき、何を得ようとしていたのか知るために。
そして……それを砕くために。
女を抱きかかえると、深紅の翼を広げる。その足元に影より濃い闇が浮かび上がり、二人を飲み込んだ。