〜昔語りの老人〜
水滴の音が暗闇に落ちる。
時折横切る蛍火とも鬼火とも見える光は、時に恨めしそうに、時に悲しそうにオディオの姿を見送る。
その後ろから、壁伝いに恐る恐るルレイシアが付いてきている。
苔むした石造りの空間……閉鎖的で永い年月を経た空気が流れるここは、オディオの作り出した空間の一つ、牢獄水路。ここを進む二人の距離はずっと変わらない。
目指す場所までは幾つかの分岐点がある。そこに着いたときだけルレイシアの手を引く。
抱えてしまえば自分のペースで歩くことができると分かっていても、甘やかしている気がする。だが、長身のオディオに、決して小柄ではないとはいえ女性であるルレイシアが同じペースで歩くのは困難を伴う。気づかないうちに速度を落として調節している自分に時々何をしているのかと自問自答したくなる。
壁伝いでしか歩けないのでは、置いていかれて当然なのだが……足音が殆ど変わらぬ距離から聞こえてくることにルレイシアはくすぐったい気持ちになる。
試しに少し離れてみたが……すぐに引き返した。
魔物どもは常にルレイシアを狙っているようだ。わずかに距離を離しただけで、悪意と欲望が膨れ上がったのを感じた。
過日のような面倒は御免被るとばかりに引き返すと、あっさり気配は消える。
この女が、自分を呼ぶために召喚しているのではないのだろうかと勘繰ってしまうほどのタイミングのよさだ。もっとも、自分が犠牲になるために召喚する間抜けはいない。それだけ魔物が狡猾とも言える。
分かってはいるが、いいように使われているような気がしないでもない。
だからこそ時に自分に問うてしまうのだ。「何をしている」と。
角を曲がったところで一瞬死角になる。しばらくして短い悲鳴が上がった。
魔物の気配はしないが……気配を絶つほどの高位の魔物が現れたとなれば話は別だ。オディオは急ぎ元来た道を引き返す。
足音が近づいたことにルレイシアはぶんぶんと首を振る。
「ごめんなさい……」
立ち上がるとゆっくりと進み始めた。
何事もない。強いてあげるなら……オディオの耳元を不快な音を立てて虫が過ぎ去って行った。大抵の人間……特に女性が毛嫌いする虫だ。
それに何の心構えもなく、まして心構えがあったとしても、抵抗力の無い人間であれば気絶してもおかしくない存在に触れてしまったのだ。悲鳴の一つぐらい上げるだろう。目が見えない分、触覚や聴覚といった他の感覚が鋭くなっているだけに余計に恐怖が増幅される。
やはり、迷惑だ。
素早く横抱きにするとそのまま自分の歩幅で歩き出した。
この方が遥かに楽だ。
「オルステッド様……あの……」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
何に対する礼なのかよく分からない。考えるのも面倒だ。むっと押し黙った雰囲気を感じたルレイシアはとんと頭をその鍛え上げられた胸に預け、しばし疲れを癒すように目を閉じる。
一つの扉の前に立つとルレイシアを降ろす。重厚な面持ちの扉はその向こうの主の性格を現しているようでもあり、彼に対するオディオの敬意の現われでもあった。
扉を押し開くと、蛍火が揺らめき、ヒトの形をとる。
髭を蓄え、粗末なローブに身を包んだ老人がふわりと椅子に腰を下ろす。
『珍しい……お主がここを訪ねてくるとはの』
オディオは無言で礼をする。作法に則った礼儀を振舞う姿はまごうことなき正騎士のもの。隙一つなき流れるような所作は見るものすべて魅了する威厳と優美さで溢れている。 その相手は、唯一彼が「かつての自分」のように振る舞い、その油断を見せることができるヒト……だったもの。
「貴公の知恵を借りに参った」
『ほほっ、それこそ珍しい。王たる知恵を手に入れたおぬしにも分からぬことがあるか』
嗜めるような、茶化すような言い方だがそれにも反発せずじっと聞き入っている。
一つしかないヒトの気配と二つの声におろおろしているルレイシアの姿を目に留め、老人はほうと感嘆し目を細める。
『ほうほう……これは珍しいことが重なるもの。おぬしが生きた人間を……しかも女とな……』
「・・・・・」
老人の言葉に言い知れぬ不安を覚えたのか、きゅっと自分のドレスを握りしめる。
『なんじゃ。怖がらずともよい。それにそういう時は素直にその男の腕にでもしがみつけばよかろう』
ほっほっとどこか底意地の悪い笑いに、オディオはやれやれと肩を竦める。そうしたくともすぐにはできない事情があることまでは老人は見抜いていない。
「いえ……違います。貴方の言葉……貴方は、ひょっとして私が何者かをご存知なのではと……」
言葉の奥にある確信めいた響きに驚いたのだと説明する。
「そうなのか?」
小刻みに震えるルレイシアをちらりと横目で確認し、改めて老人に問う。
『勘のよい子じゃ……本物に死んだ後で出会うとは……ふむ』
死んだという言葉にやはりと悲しげな面持ちになる。
『そのような顔をせずともよい。綺麗な顔が台無しじゃ。それに儂はこの生活を愉しんでおるでの……時間はたらふくある。こうして世間のしがらみに煩わされることなく知識の探求ができるというのは、結構な身分じゃて』
優しい言葉に混じる憐憫の響きにルレイシアは深々と礼をする。
「それで、何を知っているのだ」
『儂が知っておるのはこの娘さんのことではない。娘さんの力のことじゃ』
生前の好んでいたのか、タバコの幻影が現れ、心地よさげにぷかりとふかす。
「力……魔力とは別の?」
『お前さん、この娘が妙に魔物に狙われたり、あるいは血を啜った魔物が爆発的に強くなったりするのを見ておらぬか?』
老人の言葉にルレイシアばぎくりと身じろぎする。みるみるうちにその表情が曇り、くっと軽く唇をかみ締めている。泣き出しそうになるのを堪えている小さな子どもと変わらない様子にオディオはフンと軽く鼻を鳴らすと、
「てっきり魔物どもに恨みを買うほど退治して回っている無謀な女かと思ったが、やはり違っていたか」
『退治できるほどの力も持っておったろうな。そうでなくては《運命の血》に負けてしまうからの』
聞きなれない単語にオディオは眉を上げる。
『《運命の血》《世界を為す力》《エルヘーエン・イーレス・ブルート》……《エンハンス・ブラッド》とも言うそうじゃ』
「名前はどうでもいい。それで、どういう効果があるんだ?」
一つ一つ名前が挙げられていくうちに、ルレイシアの様子が変化していることを気にしながら話を促す。次第に何かを感じ取っていくような様子……神託を告げる巫女のような神聖さが満ち満ちてきている。
『その娘さんから流れる涙、あるいは血を得たものは、今よりも遥かに強力な力を得ることができる。凡人であれば天才に、天才であれば神に等しい力をも得ると言われておるよ』
ほうと愉快そうに目を細める。
「……でも、一時的です。そう、ほんの一瞬だけ、信じられないような力を手に入れることができる。世界すら変えるほどの揺ぎ無い力……刹那の儚い力を……」
すらすらと何かを読んでいるかのような言葉の流れにオディオは目を剥く。
「思い出したのか……?」
焦燥感に似た、掠れた声にルレイシアは寂しそうに笑うと、
「ごめんなさい……思い出したのはそれだけです。ご期待に添えなくて、本当にごめんなさい」
思い出せば、死出の旅路へとまた一歩近づくだけだということをルレイシアは知らない。オディオは舌打ちと同時にその無垢さと……どこかでほっとしている自分に苛立ちを覚える。
しかし……と、先ほどの言葉を推考する。
世界を変えかねない力……卑小な魔物が己に匹敵するのではというほどの力を得、苦戦を強いられたことは忌々しいほど鮮明に覚えている。
なるほど、魔物どもが歓びそうな力だ。
一瞬で《神》であれ《魔王》となれるのであれば、誰だろうと飛びつくだろう。
『刹那の夢、うたかたの幻じゃよ。それでも欲するものは欲する』
「この女を食らってしまえばいいのではないか?」
ルレイシアはぎくりとしながらも、なんとか涙を流すことだけは堪える。彼女は本能で悟り、経験で覚えていたのだ。息を潜める魔物たちが彼女が涙を流す時を、血を流す時を常に狙っているということを。
だからどんな状況でも……涙を見せなかった。
いつかオディオの不意の優しさに触れたときに堪えきれずに泣いた晩、魔物たちが大量に押し寄せたことを思い出す。
《魔王》が側にいても、彼の油断をついて涙を得るために。
『相変わらず手厳しいの……まあ、それが一番早いように見えるが、逆じゃ。死すればその娘さんは役目を終える。血も当然ただの血に戻るだけじゃ』
「役目……」
『はて……なんじゃったかの。何せ古い伝説の一つ。まさか本物に出会うことがあるとは思わなかったからの、勉強不足じゃ。許せ』
元からなのか、それとも暗い表情のルレイシアを励まそうとしているのか妙に明るく話す老人に釣られて、ルレイシアは薄暗い石室の中でも輝くような笑顔で応える。
「いえ……自分のことが少し分かった気がします。ありがとうございました」
その笑顔に少し見とれてしまい……オディオはそらとぼけて部屋を見渡す。
「退屈しのぎの物語にしては十分だった。礼代わりに少しこの部屋を片付けよう」
部屋は……オディオの計らいで老人の望む書物が山と積まれている。ゴーストでありながらも書物に触れることができるのもオディオの為せる業。人知を超えた力により生かされる身を老人はそれなりに愉しんでいる。とはいえ片付けるという習慣はあまりなかったようで、本は手当たり次第に散らばっている。
「外で待っていろ。扉のすぐ側なら私の気配も届くから魔物どもも来ないだろう。何かあっても直ぐに行く」
「はい」
ふわりと心底安心している笑顔に、老人はうんうんと満足そうに笑う。
扉が開閉する音が響き、部屋には一つの影が残される。
『お主の力を持ってすれば、あの娘の記憶を辿るぐらい簡単であろう』
「そこまでしてやる義理もない。退屈しのぎには面白いゲームだからな」
簡単に真実にたどり着いても面白くない。思い出そうと足掻く姿も愉しみたいと思っていたのが、そちらのほうはあまり効果がない。思い出そうとしても何も思い浮かばないことを悲しんではいるようだが、仕方が無いと割り切っている節もあり、彼の前でそのことをことさら強調したりはしない。
手にした本のタイトルを確認しながら、辺りの本棚を見回す。
『悪趣味じゃのう……ところでお主は試しておらんのか?』
「何をだ」
特に何の感銘もなく、てきぱきと本を片付ける。ぱっと見た感じでは城勤めの騎士が上役の魔道士に使われているような日常的な光景だ。
老人の、そこはかとなく愉しそうな響きにむっとしながら応える。
『お主ならばあの娘の側にいるだけ、機会はいくらでもあったろう。ヒトも魔も力を求めるものは自然とあの娘の力に引き寄せられるそうじゃ。お主は惹かれなかったのか?』
「惹か……」
思いもよらない質問にオディオは言葉を詰まらせる。この老人の前だと「かつての自分」にように振舞ってしまう瞬間がある。それを老人も見抜いている。だからこそ微妙な言い方で……《純朴な青年》をからかうように訊いたのだ。
「失礼する……っ!」
ばんっと最後の一冊を無理やり本棚に押し込める。ようやく絞り出した声は思いのほか低く、老人はしてやったりと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。
『まぁ、まて、久しぶりに来たのじゃ。老人の忠告は最後まで落ち着いて聞いていくといい。あの娘さんが言った通り、《エンハンス・ブラッド》の効果は一時的じゃ。長くその恩恵に預かろうとすれば当然娘を手元に置いておく必要がある……この意味、わかるか?』
「・・・・・」
老人の言葉に、オディオはしばし黙考し……にぃっと口の端を上げる。
「なるほど……魔物に人間を飼いならす知恵があるわけもなく、一瞬で全てを食らい尽くす。知恵のある魔物であればまだマシな方法を使うだろう。人間は……最悪だな。捕らえて、死なない程度に、永続的に血と涙を啜るというわけか……魔物のようなものだ」
とても普通の神経では聞いていられない、凄惨な現実。血に秘められた力が招く悲劇に改めて気づいた。
同時に彼女が何故旅をしていたのかも……一所に定まれば、間違いなく魔物か、力を欲する人間の餌食だ。
強い人間を伴って、当てもなく彷徨う。
それが記憶のあったころの彼女の生き方。
「やはり来た甲斐があった。感謝しよう」
ひらりと優雅な礼に老人は目を細め……そのまま去っていく男を見送った。
『哀れよの……いまだ傷は癒えず……か……。はて、《エンハンス・ブラッド》の役目はなんだったかの……ボケたくはないものじゃ』
せっかくオディオが整理整頓した本を、再び手当たり次第に広げだす。オディオが見ていたならば怒りで壁の一枚を砕きそうな光景だった。
扉の向こうで、静かに待っていたルレイシアが、後ろから現れたオディオに微笑みかける。
行く道を示さないので、とりあえず適当に歩を進めたとき、
「そっちは行き止まりだ」
腕を強く引っ張られ、そのまま横抱きに抱え上げられる。
深紅の翼が広がり、数枚羽が散った。
そこにはもう誰もいなかった。
ただルレイシアの進もうとした道の先に、小さな蛍火が二つ、悲しそうに揺らめくのを除いては……。