〜届かぬもの〜
場面が変わり……青年は先ほどの男と変わりなかった。しかし時間は割と経過しているらしく、二人の間には護衛するものとされるものというより、友人のような柔らかな親近感が生まれていた。
だがいつかの男が言ったように、オディオの目からも分かる「よそよそしさ」がルレイシアには残っていた。
決して気を許すことのない警戒心じみたそれは、青年にも届いている。
彼女は自分を見ていない。
青年の心にじわりと黒い染みが広がっていくのをオディオは感じ取った。心地よい感情……紛れも無い憎悪だ。
幾日、危機を何度救おうとも、護衛として以上の目で見ることのない女に、青年はチッと血の混ざる唾を吐き出す。
「大丈夫ですか?!」
目ざとく、どこか怪我しているのを見抜き、瞬時に治す。
彼女自身、とてつもなく強い。オディオですら、真剣に相対すれば……と考えてしまうほどだ。
その彼女が護衛を必要とするのはやはり魔道士ゆえの集中する間に生まれる隙を補うためだ。それさえなければ護衛など必要ない。
必要ない……空虚な風が青年の心を通り過ぎる。
「あんたは……本当に俺を必要としているのか?」
「はい」
間髪をいれず応えるルレイシアに、青年は気が殺げたのか軽く脱力した。
何も分かっていない。だが今はそれもいいかと再び剣を握り直す。
この笑顔を側で見られて、剣の修行ができるというのは、結構恵まれた環境なのではないかと思えてきた。そしていつか誰かに出会い、俺も幸せな男になれるのだから……。
じっとその様子をオディオは見守る。
一度生まれた黒い影は、そうそう失われるものではない。そのことを一番知っている。
斬。
魔物の大群を切り伏せていく青年をルレイシアがサポートする。
時に風のように素早く、時に烈火の如き強さをその剣に宿らせて、男は思うがままに剣を振るう。
「しまった!」
男の隙をついて、一匹の魔物がルレイシアの眼前に迫る。愉悦の咆哮を上げ魔物は口を大きく開く。だが次の瞬間、灰燼と帰した。青年が戦っている間に魔物を祓う魔法を完成させていたのだ。
その威力、まさに戦乙女と呼ぶに相応しい……忌々しいほどに辺りに満ちる聖なる力にオディオは軽く驚嘆する。
男は呆然とその姿を見た。
魔法の威力の余波で、ふわりとルレイシアの髪がなびく。清流そのもののような美しい流れは太陽の光を浴びて輝いている。
あれだけの大技を仕掛けたというのに息一つ乱さず、じっと他に魔物がいないか様子を伺っている。冷徹な戦士に似た眼差しはそれを一瞬見た青年を震え上がらせるには十分だった。
ナンダヨ、コノ女……俺ナンカイナクテモ……イイジャネーカ……。
ぞろりと、地面から這い上がるような昏い声。浅ましさに満ちた声にオディオは冷めた目でその主を睥睨する。
ヤッパリ俺ナンカ……生キタ盾グライニシカ思ワレテネーンダ……。
ゆらりと幽鬼のように立ち上がり、そろそろとルレイシアに近づく。
剣呑な表情で近づいてくる青年に、ルレイシアがはっと顔を上げた瞬間!
ざっと……赤い影が広がる。
オディオは色をなし思わず駆け寄りそうになり……踏み留まる。軽率な自分の行動に大きく舌打ちした。
ぽたぽたと、両の腕から血が滴り落ちる。とっさに身を庇ったのだろうが、躱すまでは至らなかった。
愕然とするルレイシアに、青年は酷く冷静な眼差しを向ける。剣からも滴り落ちる血に、にやりと歪んだ笑みを浮かべた。何をするのか読めたルレイシアは色を失う。
「……駄目……!」
制止が届くことなく。
青年はぺろりと血を舐め取った。
どくん。
誰の心音が分からない。
オディオ自身のものなのか……驚愕に震えるルレイシアのものなのか……あるいは、今目の前で変貌を遂げようとしている青年のものなのか……。
「ふざけるなよ……これ以上あんたの……イイ人探しには……付き合えねぇ」
ぞろりと低く響き渡る呪詛のような言葉にルレイシアは小さな子どものように首を振る。
「俺がどんな気持ちであんたと一緒に来たのか……ワカンネェほど、馬鹿じゃないだろ、あんた……一目惚れだったんだ……それを……それを……!」
次第に声がくぐもり……判別できなくなっていく。
巨大な獣のような大音響が上がり、男の身が漆黒のオーラに包まれる。
めりめりと木の裂けるような厭な音を立てて、男の背中から数枚の醜悪な蝙蝠の羽が広がる。頭が裂け、捻じ曲がった角が生える。あらゆる筋肉が迫り上がり、尋常ならざる大きさに肥大する。
両眼から吹き上がる炎のような赤い光が立ち上り、天を切り裂く。
ずんっと地を割るような地響きがして、土煙が舞い上がる。
目の前にいるのはもはや剣士ではなく、血に飢えた魔獣であった。
ルレイシアは一瞬悲しそうな目を向けた後、戦うことを覚悟したのか、さっと杖を構える。一瞬でその腕の傷を消し去り、辺りに結界を張った。
戦いの間に他の魔物を呼び寄せないため強力に作られたそれは、オディオですら破るのが困難であっただろうほど精密で強固な作りだ。
魔獣が咆哮を上げ突進してきた。
「……土の精霊……!」
鋭い声に応じて、外見は愛らしい老人の小人のようなノームが現れ、こんっと手にした小槌で大地を打つ。魔獣とのアンバランスさに思わず笑いそうになったが、その秘められた力が外見で決められるものではなく……無数の強力な蔦が魔獣の動きを封じる。
引きちぎろうと暴れる魔獣を睨みつけ、さっと印をきる。
「水の精霊……!」
ぴょこんと銛を持った小さな人魚、ウンディーネが現れる。さっと銛を振り下ろすと容赦なく天空から氷の槍が降り注ぎ、魔獣の身体を突き刺す。
「ガアアアァァァア!」
耳を劈く絶叫をあげ蔦を引きちぎり、氷の槍を炎で燃やし尽くす。
まっすぐ向かってきたかと思ったが、目の前で高く飛び上がり、姿を隠す。
結界の外には容易には出られない。破いたとしてもその場所が特定できる。再び閉じ込めるまで……!
じっと杖を掴み、静かに待つ。
否、溢れ出る魔力はゆらゆらと光が水面に揺れ動くような輝きを放ちながら立ち上っている。
ざあっと影が目の前に迫り、立ちはだかる。
!
ひゅっとオディオは息を呑んだ。
喉元に突きつけられた剣。青年は元の姿を取り、ルレイシアの前に現れた。
「……命乞いをするか?」
つ、とその先端が少し刺さり、血の珠が生まれる。
「しません」
まっすぐ見つめる曇りなき瞳には怒りはなく、ただ哀しみだけがあることに、男はぎりっと歯軋りする。
「馬鹿な女……いいさ、構わない」
じわりと悪意に満ちた念が二人を包みだした。
「そんな愚かな夢を見ないで済むようにしてやるよ」
どんっとルレイシアを突き飛ばす。剣を高く構え、叫ぶ。
「二度とそんな馬鹿げた夢を語らずに生きていくよう、《運命の血》の定めを、お前自身の記憶を失うよう……」
暗雲が立ち込め、霆が轟音を上げて落ちる。
「……!」
ルレイシアの表情が恐怖で凍りつく。
今の青年は……ルレイシアの血の力を借りて彼女以上の魔力をも手に入れている。彼が呪いを完成させてしまえば、間違いなく成就してしまう。
止めなければと立ち上がろうとするルレイシアを容赦なく目に見えない力が突き飛ばし、叩き伏せる。
がはっと……血の塊を吐き出すルレイシアを何の感慨も抱くことなく見下ろす。
「何も語らなくていい、何も見えなくていい……俺がズっと側にイてやるさ……コノ力、誰ガ手放すモノか……」
心が、蝕まれていくと同時に、再びその姿が魔獣と化していく。
ルレイシアは恐れていた事態に……オディオですら初めて聞く冷淡で静かな、深い怒りの声を上げた。
「だから……だから私の力を得てはいけないと……今の貴方はもはや人間には戻れない……哀れな、魔性の生き物……」
血を拭い、すっと杖を構える。
「だからこそ私は力を与えられた。一つは《誰か》に出会うまで、私自身を守るため。そしてもう一つは……あなたのように力に溺れた亡者を……殺すため」
息を呑むほど凄惨な決意を表した乙女は……狂おしいほど美しかった。
神々に愛でられたという絵物語の表現が誇張で無いことを証明するかのような、光の輝きは、オディオですらも忘我の域を彷徨うほどに見入ってしまう。
「私は貴方を男性として見る事はできなかったけれど、友として、同じ道を……幸せな道を歩みたかった」
その選択が時として冷酷な結末を迎えると知っていても、それでも友人でありたかったと願う。
「あなたが私ではない誰かと、幸せになる日を祈っていた……今度ばかりは、その祈りが届かなかったようです」
朗々と神託を下す巫女の姿が、一条の光の中に浮かぶ。
「さようなら、友よ」
泣くことを許されない女の目に、すっと一筋の流れが生まれる。
光が、音もなく爆発した。
どれほどの時が流れただろう。
ルレイシアはゆっくりと男に近づく。その姿は元の人間に戻っていた。
オディオはその動きにほうと息をもらす。足を引きずっている。どうやら物語は終末に近づいているらしい。
息も絶え絶えの男に、そっと寄り添う。
「……ごめんな」
咳き込みながら男は呟く。ルレイシアは泣き出しそうな顔で首を振る。
「自分じゃないって……分かってた……分かっていても……どうしようもなかった……」
重ならない、受け取れない想いが焼けつくように喉に絡む。ルレイシアは言葉を探したが、形にならないもどかしさに顔を歪める。
初めてみる弱り切ったルレイシアの表情は、傍観者の心をも掻き乱す。傍に駆け寄り、肩を抱きしめたい衝動に耐え、己を叱咤する。その怒りの矛先は、今にも絶命せんとする男に向けられる。
哀れな、男に。
「……つらかったら、あんたの護衛なんて降りちまえばよかったんだ……それができなかった。弱かったんだ。強くなりたかったんだ……あんたの言う、世界を動かせる男にさえなれれば……」
ヒューヒューと風の鳴るような呼吸に、ルレイシアははっとなり意識を集中させる。それを最後の力を振り絞るようにして腕を掴み、止めさせる。
「無駄だよ……わかってるんだろ……?」
一度ルレイシアの血の力を使い、驚異的な力を得たものは……その身を食われる。
生きていくためにはずっとその力の恩恵を受けなければならない。
しかし……定められた者以外がその力を受けてもやがて心身を蝕まれていき、発狂し、死に絶える。
それを防ぐために、血を啜らなければ生きていけない、涙を流させなくてはならないという行為が、良心を蝕むともいうし、強力すぎる力ゆえに並の人間では打ち勝てないともいう。
今はその進行を緩やかにすることさえできない。
「……あんたの力を借りて、使った呪詛はもう直ぐ完成する……その始まりだろう?」
そう。既にルレイシアの中から強力な魔力は失われ始めていた。一人の非力な女となり、自分の側にありさえすればいいと望んだ男の欲望が、結実しようとしている。
「なのに……俺がこのざまじゃな……そうだ」
ぎゅっと天高く拳を突き上げる。何かに救いを求めるように……祈りを捧げるように。
「次にあんたを守る男が……最後の男でありますよう……俺が世界にかける呪い、いや……願いだ……」
ふわりとルレイシアの身体を光が包み込む。
「……!」
光の向こうでルレイシアが絶叫を上げる。男の名を呼んだようだが……既に声が封じられたのだ……。
「行けよ……こんなみっともない男の死体が転がってたら……目覚め最悪だろ……?」
願わくば。
彼女を守る男の元に辿り付けますよう。
「さようなら……友よ……ルレイシアよ……」
男の言葉にオディオは愕然とする。その動揺は世界を揺るがし……意識を高みへと引き戻す。
意識が完全に現実に戻る。
「オルステッド様……?」
随分近くにいる男に戸惑っているのか、ルレイシアが不安げに呼びかける。
完全に彼女自身の夢に入り込んだのであれば、今の彼女の記憶を元に構成された世界だから、名前が一致していてもおかしくない。
だが、あの男が名前を呼んだのは、ルレイシアがいずこともなく転移させられた後だ。
偶然の一致にオルステッドは何者かの思惑に嵌められたような気がして薄ら寒い思いをする。
(いや、違うか)
珠のような汗を滲ませるルレイシアの額を優しく撫でる。
彼女の姿を見たときに、そう思ったから名づけた。ただそれだけだ。
「そういえば、汗ではお前の力は得られないのだな」
同じ水分なのにと嗤う。
「……突然妙なことを言わないでください」
ひんやりとした男の手が心地いい。だが照れくささもあってどう反応すればいいのか困っているのが見て取れる。
「お前は、二度と友を失いたくないのだな」
ひどく憐憫の籠った声にルレイシアはこくんと頷く。
「どうして……?」
夢を通して記憶を探ったと伝えるのも面倒で、もう一つの事実を伝える。
「そんな気がした。私も同じだからな……」
心に過ぎる遠き思い出。
取り戻せない、昔のことだ。
「私も……失いたくないんです……もう……いいえ、きっと……」
うつらうつらと意識が消える。
何を言いたかったのかは分からないが……いつの間にか掴んでいた手は温かい。
「……失いたくないから……か……」
ずっと側にいれば、必然的に彼女を狙う魔物との戦いに巻き込まれる。
だから今までは折を見て別れを告げていたのだろう。偶然か必然か、護衛を買って出た男には不思議と良縁が飛び込んできたようだ。
しかし歯車は最後の一つで狂う。
この世で最高の女を目の前にして揺るがない男などいない。分の悪い、危険な賭けに勝てさえすれば、手に入れられる至上の宝石。
あの男の気持ちは手に取るほど分かる。欲望に身を任せて生きる姿は共感できる。
だが、分不相応な望みは破滅を招くだけだ。
愚者にかける情けなど無い。
(私を……危険から避けたい気持ちと……)
そっと前髪に軽く触れる。
(側にいたい……心)
葛藤が、この数日のルレイシアの行動の全てだ。
(あの呪いが成就していたならば……)
『次に守る男こそが……』
掴まれていた手をそっと外し、寝台からゆっくり降りると、ワインをグラスに注ぐ。
「呪いの通りに出会ったとすれば、呪われた因縁というわけだ……」
それこそ自分に相応しい。
すやすやと眠る乙女に向かって軽くグラスを上げると一気に飲み干した。