〜居城にて〜

 自室に戻ると召使代わりのゴーストたちが新しい蝋燭を用意し、寝台を整えていた。
 かつて存在した王国のメイドや執事たちは生前の責務をこなしている。違うのは仕える主だけだ。
 主の帰還を察知し、もっとも適した応対をこなす姿は優秀な使用人であった名残だろう。感情も何も無く、ただあるだけの連中に目をかけることなどない。むしろ目障りにすら思えるが、便利だから使っている。それだけの話だ。
 男は静かに女をベッドに横たえると、自身はソファに腰を落とす。
 軽く目を閉じ休んでいると、どれほどの時間が経過しただろうか、ぎしっとベッドの軋む音が響いた。
 女がゆっくりと身を起こし、辺りを伺っている。どの程度見えているのか定かではないが……すぐにその行為が意味を成さないことに気づいたのか、がっくりと肩を落とす。
 どうやら彼女自身、目が見えないという事実に慣れていないらしい。それでも懸命に辺りを伺おうとじっと気配を研ぎ澄ませているのか見て取れる。
「ここは私の部屋だ」
 男の声にきゃっと短い悲鳴を……上げたような仕草をする。やはり声も、呼気すらも聞こえない。
「ゆっくりと自分の服を確認するんだな。何も変わってはいまい」
 促されて、女は慌てて自分の体をあちこち触る。ちゃんと衣服を身に着けていることにほっとしたらしい。今度はベッドをゆっくりと撫で、縁を探し出すと少し身を引き、深々とお辞儀をした。
 ……どうやら助けてくれた礼を言っているつもりらしい。どこか焦点のずれた方向に礼を言われても、奇妙な気持ちになるだけ。男はうんざりしながらコンコンとサイドテーブルを叩く。
「こっちだ。まぁ、礼を言われるために助けたつもりはないが……まったく見えないのだな?」
 ノックの音に合わせて少し向きを変えた女は、困ったような表情をしたまま、こくんと頷く。
「声もまったく出ない、それどころか呼吸する音すら聞こえないとは、たいしたものだ。心当たりはあるのか?」
 再び首を振る。
「……自身のことは、分かっているのか?」
 軽く唇を噛むと、やはり首を振った。
 憂いを含んだ表情で俯く姿は、それでも息を呑むほど麗しいと男は思う。美術品に対する評価程度の感情ではあるが、それほどの感情を自分に持たせるだけ稀有な女だとも嘯く。
 何もかも失い、虚ろであるはずの女には、今だ何か強いものが秘められている。
 それを打ち砕きたいという願望だけが男を突き動かし、心を躍らせる。
 ともすれば愉しげに話してしまいそうな口調を抑えるのに気を使っていることに男は驚いた。
 久々のいい退屈しのぎ。
「しばらくお前の面倒を見てやろう。お前が全てを取り戻すまで、ここに留まるといい」
 女は驚き顔を上げる。
「もっとも拒否はできまい……ここがどこであるか、お前がどこにいたのか、それが答えられるなら別だろうがな」
 挑むような口調に女はむっとしたようだが、突きつけられた事実は否定できない。
「部屋のものは自由に使っていい。なにをするも勝手だ……さて、どうするね」
 にぃっと知らずの内に口の端があがる。無力な女が何を始めるか。いい見物になりそうだ。

 女はしばし悩んだ挙句、ゆっくりと立ち上がる。
 ぴったりとベッドに沿って歩き、壁を見つけると、今度は壁伝いに慎重に歩き出した。
 捻挫した足が痛むのか、苦痛に顔を歪ませながら、ゆっくりと一歩、また一歩と歩く。
 その様子を男はただ傍観する。手を差し伸べる義理はない。ただ何をしているのか観察しているだけだ。
 つと、窓に手が当たりその冷たさに一瞬手を引く。
 外は永遠の真冬。それを知る由も無い女は、ただ自分がいたはずの世界とは違うということに気づいたのだろう。
 ぎゅっと結ばれた拳がカタカタと小さく震える。
 ソファに座ったままでは女の小さな動作までは見えない。しかし泣いている気配はしない……たとえ声は無くとも、涙一つ流している様子は無い。
(気が強いのか……あるいは並外れて適応力が高いのか……)
 どちらにせよ興味は無い。むしろ泣き喚かれても音がしない分だけ、自身は物音一つ立てることのできないゴーストどもと似ていて煩わしくないだろうと安堵する。

 やがて……這うよりも長い時間をかけてようやくベッドに戻ってきた女の額には、小さな汗の玉が滲んでいた。男の動向を警戒しつつ、部屋の中の様子を探るために神経を使って歩いたのだろう。頬はうっすらと上気し、綺麗な桜色を帯びている。 
 大よその部屋の広さ、質感を理解した女は思ったより体力を消耗したことに気づいたのか、胸の辺りを軽く押さえ、呼吸を整える。
「そのまま、ゆっくり立て」
 抑揚の無い冷たい声に、女は少し怯えたように、それでも命ぜられるままに立ち上がる。
「前に……そうだな、7歩ほど歩いてみろ」
 ふらふらと頼りない足取りで、ゆっくり進む。だが何の手がかりも無い状態で歩くのにはやはり無理があったのか、一、二歩歩んだところでぎゅっと顔を歪ませてしゃがみこんでしまった。
 女は悔しげに顔を歪ませながら、それでも立ち上がり、前に進む。
 助けを求めようにも声は出ない。何よりこの男はここに連れてきて以来自分に触れようとしない。手を差し伸べようとも。
 いかなる人物が自分を生かしているのか分からない。それでも純粋な善意からではないということだけは分かっている。
 頼りたくはない、それでも生きるために今はその人物の助けが必要だ。
 自分には為すべきことがある。

 ・・・・?

 為すべきこと?

 とんっと男に肩を軽く捕まれる。一瞬何かか過ぎったような感覚があったが、結局形を造ることなく消えてしまった。
「手を前に出してみろ」
 こつんと何かが当たる。
「分かるな。ここがテーブル、こっちは椅子だ。食事をしたいときにはここに座ればいい。使用人どもが用意してくれる」
 ちらりとゴーストたちを一瞥する。心得たとばかりにゴーストたちは一礼した。
「・・・・・」
 微妙な間合いに、男がいかにもその使用人たちに何かを伝えているのだろうとは感じたが、他にヒトの気配が無いことに戸惑っているようだ。
 くいくいっと男の袖を引っ張る。呼びかける方法がないのだから不躾は承知の上、女は申し訳なさそうに見上げながら、それでも必死で訴えかける。
 男はじっとその瞳を見据え、心を読もうと集中する。
(……チッ)
 心の中も記憶も見ることができるはずなのに、この女に大してはそれが利かないことに気づく。
 力を送り込もうとしても弾かれ、届かない。
(この女自身の防衛本能か……あるいはこの女をこういう状態に陥れた輩の……まさかこの私の力が及ばない人間がいるとはな……)
「ゆっくり口を動かせ。少しは読唇術を心得ている」
 軽い苛立ちを覚え、口早に告げる。
 彼女自身の能力、すなわち魔力の高さは感知できる。記憶を失ってもその力までも失うわけではあるまい。封じられたとしても、また使い方を忘れたとしても潜在能力まで消し去れるわけではない。それゆえ怒りの矛先は自然と今は見ることのできない彼女の「敵」に向かう。
 異なる世界、異なる時間の住人であっても問題はない。それを越える力もまた得ているのだから。
『他に、ヒトがいるのですか?』
「どういう意味だ」
『この世界には、命を感じません。貴方がいることのほうがとても不思議です』
 なるほど、やはり只者ではないらしい。わずかの時間の間にこの《世界》を感じ取ったというのであれば、たいしたものだ。
「ならばお前も私も死者ということだ。死の国で生きた振りをするのも滑稽だがな」
『私は生きています。貴方もです。答えをはぐらかさせないでください』
 ぷうっと……幼子のように怒る女の仕草に男はくっくっと鳩のように笑う。
 久方に……こんなに笑った。気づいたのはあとになってからだ。
「己が目で確かめることだ」
 さらに畳み掛けるように怒ろうとした女の腹が、くぅっと小さく鳴いた。
 かあっと一気に耳まで赤くして、黙り込む。
「どうした。議論はここまでか?」
 彼自身長く読唇術で会話をするのも疲れる。切り上げのベルにちょうどいい音があったものだと再び、今度は声を上げずに笑う。
「答えは自身で見つけるといい」
 そのときにはきっと、己の置かれた状況に絶望し、枯れることなく泣き続けるだろうから。
 まだ見ていない女の泣き顔と涙。それを見る日が待ち遠しい。