〜名前〜

 がたんっと男は勢いよく立ち上がった。わなわなと全身が振るえ、唇が戦く。
「……何故……何故その名を知っている」
 ようやく、搾り出した声は自分でも驚くほど震えている。
 ルレイシアは男の様子にも、また自分の言葉にも驚いたように辺りをきょろきょろと伺っている。
『・・・・・!』
 何かを言っているようだが、今の彼にはそれを読み取る余裕がない。
「くっ!」
 どんっとテーブルを強く叩く。ワイングラスが倒れテーブルに赤い染みを作る。それ以上に鮮やかに男の深紅の虹彩が怒りと驚愕で炎のような輝きを放つ。いつもならすぐに取り替えるために来るゴーストたちも男の剣幕に姿をかき消してしまった。
「私は……私は……」
 遠き過去に捨てた名を告げられ、男は唇をかみ締める。無意識の内にあまりに強く噛んでしまい、つと血の球が生まれる。
 ふと、腕を捕まれて驚く。いつの間にか、彼女はそこにいた。
『名前……ありがとうございます』
 的外れな言葉が見て取れて、苛立ちが募る。しかし読み取ろう集中したお陰か、普段の冷静さを少し取り戻す。
『貴方がその名前で私を呼んだとき、私も貴方の名前を感じたのです……古い言葉……あの、その、貴方の名前ではないのかもしれません。でも、私、貴方の名前をまだ知りません。そう感じて、つい言ってしまったんです……ごめんなさい』
 しゅんと……男の剣幕に押され、ほころんだ花は急にしおれてしまった。そう思わせる落胆振りに男の心のどこかが疼く。
「魔道士というのは……時々分からぬことをやる」
 ふと、一人の青年の顔が浮かぶ。
 今では憎しみに歪んだ顔しか思い出せない。それでも……忘れることのできない姿だ。
 そっとルレイシアの手をとり、今一度顔を見る。ゆっくりと頭に手を回し、撫でる。

 今まで言葉で分かったのは、彼女が失ってしまったのは彼女自身の記憶と、魔法を使う術。魔力を制御する方法。
 だが全ての知識までは失っていないようだ。
 歩いたり、食事をしたりというのは生まれてきてこの方ヒトが繰り返し学習していた結果である。それらを学習した記憶までも失えば当然歩くこともできなくなる。
 知識も失えば、こうして良識を持って話すこともできない。人格の崩壊すらありうる。
 一時的に酒に溺れれば似たような醜態をさらすこともあるし、命に関わる怪我をすればショックで一時的に記憶を失うこともあろう。しかし……、
「外傷はない……やはりお前の記憶は誰かが望み、一部を封じたと考えるほうが適当か……」
 記憶をなくすほどの大怪我を負い、その前後の記憶をなくしたとしても、傷跡がなくなるまでの間の記憶すらないというのは理屈に合わない。
 自身に繋がることだけを完全に忘れているというのは、やはりそうなのだろうと結論付ける。
 自分でも垣間見ることのできない記憶を持つ女。誰がそこまでして封じたのか、興味はある。だが、そこまで自分が手を差し伸べる必要もあるまい。自分には時間を越える力がある。その気になればこの女……ルレイシアが記憶を封じられる前に飛ぶこともできる。
 その気にならないだけ。
 さらりと男の指の間から水色の髪が流れ落ちた。清流の欠片のようなそれに、知らずのうちに見とれる。
 すっとその手が、ルレイシアの顔のラインを確かめるように滑る。
 抗議するように口をぱくぱくさせているのが見えるが、何を言っているのかは聞こえない。音は、相変わらず何も発せられていない。読み取る気にもならない。
 手から伝わってくる熱は、当然顔を真っ赤に染めている彼女自身のものだ。
 訴えても聞く様子のない男に、ルレイシアは逃れようとして、慌てたように身を引く。
『……っ!!』
 バランスを崩しかけ、咄嗟に足に力をこめてしまったのだろう。捻挫した足に激痛が走り、声無き悲鳴を上げ倒れこむ。
 その姿に男はフンと鼻を鳴らす。原因が自分にあることは勿論棚に上げて、だ。
「無理に逃げようとするからだ」
『違いますっ!』
 きっと眦鋭く抗議するが、見上げている方向がずれているので迫力には欠ける。
『貴方が……その、貴方があんなことするから驚いただけですっ! 逃げたりしません!』
 ゆっくりとは言いがたい口の動きに読み取るのに苦労したが、最後の言葉だけは確実に読み取れた。
「その言葉、忘れるな」
 ひょいとルレイシアを抱え上げる。外見同様に羽のように軽いその存在は消し去ろうと思えばあの無頼の輩のように一瞬で消せる。
「逃げられるというのであれば構わないが……まぁいいだろう」
 彼の正体を知るものがまだこの世界に生存しているのならば驚いたであろうほど、優しく丁寧にベッドに降ろす。

 人間を疎み、嫌い、憎み、滅することのみを望み、生きながらえている存在。

「……声無きうちは私を呼ぶこともできまい。勝手に呼べばいい」

 過去に捨てた名前でも、今を生きる名前でも。

 男の名はオディオ。
 その名の意味するところは『憎悪』。その体に宿すは破壊と破滅の『魔王』の力。