〜平穏の日々〜
翌日。オディオは普段どおり、お気に入りの揺り椅子に身を委ね、微睡んでいた。
窓の外は相変わらず灰色に埋め尽くされ、時折打ち付ける風には雪とも雨ともつかないものが混ざっている。
静けさの中に埋没していくのはなんとも心地よかった。
意識が沈み行くのを感じながら、沸き起こる破滅の衝動をも飲み込む瞬間は例えようもなく心が安らぐ。
普段であれば、そのまま深く眠りにつく。
力を蓄えるために、あるいはまるでただの「ヒト」のように軽く午睡につくかのように。
しかし、普段どおりでない状況がそれを妨害する。
ぎしっとベッドの軋む音にオディオは微かに眉を顰めた。
そうだ、今は「普段」ではなかった。
常日頃、無意識のうちに自分の気配を消している。
「敵」を警戒し行動していた名残であり、今も常に己の座を狙う卑小な輩から身を守るために。
目覚めたばかりのルレイシアは不安げに辺りを伺い……オディオの気配がないことにおそらくどこかに行ったものと判断したらしく、小さくため息をつき、軽く髪を撫で付けると寝台から降りた。
昨夜のうちに一通り、部屋のもう少し詳しい構造や使用人たちの使い方を教えてやった。そのことを的確にどの程度覚えたのかは分からないが……壁伝いにゆっくりと目指しているのは浴室だった。
程なくして使用人たちが整えたばかりの浴室からは小さな水音が響くようになる。
何も伝えなくとも、優秀なゴーストたちは主人たちの望むことを察し、手はずを整える。
特にメイドたちは……元来感情を持たぬはずのゴーストが……女の客人を迎え入れたことに嬉々としているようにも見える。いつ上がってもいいように香油や櫛を用意し、浴室と虚無の世界を忙しげに漂っている。
その動きに煩わしさを覚えないでもない。幽霊風情が浮かれていると思うと馬鹿馬鹿しさにその存在を消し去ってやろうかとも。だが新たにゴーストを呼び出すのも面倒だと自分に言い聞かせる。
ことんと扉の開く音がして、石鹸と香油がかすかに混ざりあった甘い風が流れた。
メイドたちが整えたのだろう姿はどこも着崩れた様子は無い。ほこほこと軽く湯気を上げる肌は少し上気していて艶めかしい。香油を撫で付けられた髪は乾いていたときと違いまっすぐに伸びて輝いている。それでも乾きだしたところから軽く波打ちを始めている。
さっぱりして心身ともに気持ちいいのか機嫌よさそうにゆっくりと窓辺を目指して進む。
捻挫した足は幾分和らいだのか昨日よりはましな歩みで、ちょこんと窓辺に腰を下ろす。
そこはちょうどオディオの揺り椅子の傍ら。
やはり存在に気づくことなく暢気に窓に手をかけ、外を見ている。もっとも実際にはその瞳には何も映っていないだろう。昨夜の話では、「真っ暗闇で何も見えない」ということだ。
それでも精一杯外の雰囲気を味わおうとしているのか、その姿は日向ぼっこを楽しむ仔猫のようだ。
冬に閉ざされ、太陽の光など刺すこと無い空に向かって。
何をしているのやら……子どもの他愛ない悪戯を見てしまったような、呆れた心地に思わずため息を付きそうになる。目を封じられている分、音には聡くなっているようで、昨夜もほんの少しオディオが身じろぎした衣擦れの音にさえ怯えていた。
気づかれるのも面白くない。いないと思い込んでいるうちに何をしてくれるのか、高みの見物を決め込む。
じっとしたまま動かない。オディオからはちょうど死角になるため、彼女の表情を伺うことはできない。
(寝ているのか?)
外界は真冬の烈風が吹き付けていても、部屋の中は暖炉とオディオ自身の結界のおかげで適度な暖かさが保たれている。
微睡むにはちょうどいい。
だが、しばらくしてがっくりと肩を落とすのが見えた。
(なんだ。もう自分の状況に絶望したのか? 案外堪え性がなかったか)
湯浴みをしたり、食事をしたり……もう少し張り合いがあると思って拾ってきたのにこの程度だったかと、軽く落胆する。
しばらくしてもそのまま、三流歌劇のヒロインのように翻弄されることを望むなら……黄泉路に送り出してやればいい。
つまらない三文芝居にせめて華々しい最後を飾らせてやろうかと、そのまま目を閉じ別の夢を望もうとして……阻まれる。
どんっとルレイシアが倒れこんできた。
「なっ……何をしている!」
声を荒げるオディオにルレイシアが目を白黒させる。けほっと咳き込むような仕草。勿論音はしない。肘掛に強く打ったのだろう。可憐な顔を歪ませて、痛みを堪えている。
『いらしたのですか……っ!』
上から声が降ってきたのを感じたルレイシアは精一杯見上げながら、ようやく言葉を吐き出す。こんなときでも口の動きは彼に読んでもらうため遅い。
「いて何が悪い。ここは私の部屋だ」
実際気配を消し去っていたのだからオディオにも非がある。もっともそれ認める必要など感じない。
ルレイシアは起き上がろうと慌てるが、さてどこに手をつけばいいものやら、困り果てて身動きが取れずにいる。どういう状況なのか飲み込めず、余計にパニックになっている。
ぱさりと零れ落ちる髪がオディオの体にかかり、小さな水滴を作る。
『気配がしませんでしたもの……どこかに出かけられていると思って……』
「思って?」
『……と、殿方がいる場所で、暢気に湯浴みに向かうなんて……普通ならいたしません! なのに……なのに……っ』
恥ずかしさで顔を真っ赤にするルレイシアに、追い討ちをかけるように言葉をかける。
「今、お前がどこにいるのかわかっているのか?」
ようやく落ち着いたのか、起き上がろうと手をついて……それが引き締まった男性の胸であることに気づいて泡を食う。
ちょうど巧い具合に(?)オディオを組み伏せるかのように倒れこんでいたことに勿論気づくはずも無く、かあっと耳まで朱色に染まる。
「いい度胸だ。油断していたとはいえ、そのまま短剣でも使われたら仕留められていたな」
淡々とした言葉には、何の感情も籠っていない。
しかしその言葉の奥の何かに気づき、もう一度ゆっくりと手を置く。
偶然か、そこはオディオの心臓の上だ。
「何だ」
『動いて……ますね』
「当然だ」
意味を捉えかね、むっとして応じる。
『でしたら、私の目が、声が、記憶が戻るまでは絶対に生きていてください。生きることが辛くても、厭になっても……私は貴方に受けた恩を抱えたまま生きていくのは厭です』
「今、私が死んだらお前が困るからか?」
自分本位な考えを冷たく嘲笑う。それ以外にオディオには考えられない。彼が望む結末は全てを取り戻した女自身の死であるというのに……ある意味全てを取り戻した後で死ぬことが定められているのだから、それ以上の恩返しは無い。褒めてやりたいほどに愛おしく思える心意気だ。
ルレイシアは何も言わない。じっと考え込むようにどこかを見ている。その瞳が何を思い、何を語ろうとしているかは、やはり量ることができない。
やがて、そろそろとルレイシアは手を動かす。心臓から上へ……首、顎……何をするのか成り行きを静観していたオディオの頬に、ぎゅっと痛みが走る。
「……何をしている」
呆れて果てて何もする気にならないとはこういうことか。
オディオが為すがままになっている姿に、感情の無いはずのゴーストたちもそわそわとしている。
『気配を消したままにするとか、そんな風にひねくれた考えをするようなコドモには、お仕置きが必要です』
読み取るのにこれほど疲れたことは無い。
こんな詰まらないことを聞かされるとは思わなかったと、徒労感だけが襲い掛かる。
言い返そうとするのを……まるで見えていたのかというほど先手を打ってさらに言葉を次ぐ。
『死を望みながら、何を求めているのですか?』
「!」
ぎくりと動揺し身じろぎする。その反応にルレイシアはふわりと微笑む。
『貴方が私を連れてきて何を望んでいるのかは分かりません』
本当に分からないのだろうか?
そんな疑念に駆られ、くっと低く唸る。遊んでやっているつもりなのに、遊ばれていたのだろうか。
やはり女という生き物は……理解できない。
じわりと闇色の染みが心に広がる。
『私は、その望みに応えることができるのでしょうか?』
哀しみに満ちた瞳は、飲まれそうなほどの深い慈愛の光を宿している。
愚かだ。
自分が望んでいるのはお前の死だと言うのに。
それ以外に何を望んで、この下らないママゴト染みた遊びをしてやっていると思うのだ。
物語の終わりを初めから告げる吟遊詩人などこの世にはいない。
生命を、女としての誇りも一時的に守ってやったのは事実だ。
それだけでこんな深い想いを持つことができるのか?
『来ないで……!』
(!)
遥かな過去、遠いあの日。
憎悪の炎を瞳に宿し、自分に向かって叫んだあの女の声が蘇る。
『てめぇに、てめぇなんかに何が分かる……!』
変わらぬ友誼を誓った男が、怒りに打ち震えながら叫んでいた言葉が脳裏に浮かぶ。
そんなに、軽いものなのか……そうだ、所詮その程度。
移ろいやすい人間の心などに……何を望む……?
「止めろ……薄っぺらな安い同情など……いらぬ」
熱に浮かされたような言いように、ルレイシアはきゅっと眉根を寄せる。そっと降りると、居住まいを正し、ぴょこんと頭を下げる。
「何のつもりだ」
『頬を抓ってしまいましたし、不注意とはいえ貴方にぶつかってしまったことに対するお詫びです』
はんなりと微笑むと手探りで揺り椅子の肘掛を掴む。
『もうぶつかりません。ここは貴方のお気に入りの場所なのですね』
ゆっくり立ち上がると窓辺に向かう。
その後姿を見、こめかみを押さえながら……もういっそのことこの茶番を終わらせようかと立ち上がる。ぎしりと揺り椅子が動く音に、オディオの動きを察したのか、くるりと振り返る。近づいてきた気配にそっと手を伸ばす。その手をオディオは掴み、引き寄せた。
どんっと胸に飛び込む形になった上、無理な動きに足が痛み、顔をしかめる。
ルレイシアの背中に回した手を離し、そっと虚空に翳すと、その手に一本の短剣が現れる。冷たい刃がそのまま突き刺さろうとした瞬間、とん、と胸を小突かれた。
下を向けば、じっと真っ直ぐで捕らえどころのない蒼色の瞳にぶつかる。
『居候の身で厚かましいお願いですけど……せめて湯浴みの前には、いらっしゃるかどうか教えてください』
心底困ったように懇願する表情に毒気を抜かれる。
間近で改めて見ると、やはりこの女は美しいのだ。並の美術品など足元にも及ばず、技巧を凝らした絵画でさえも色褪せる。内から溢れる生命の輝きがより美しさを際立たせている。忌々しい上に陳腐な言い方であろうが、「心の輝きが身の輝きとなって」という表現がよく似合うとオディオは思う。
湯浴みを終えた直後のせいか、それともメイドたちが気を利かせて用意した香油や香水のせいなのか、ほのかに立ち上る甘い香りが鼻腔をくすぐる。
本当に恥ずかしかったのか、思い出して赤くなり、紺碧の瞳が煌くように潤んでいる。
「……善処は、しよう」
すっと短剣が現れたときと同様に虚空に消える。
もうしばらく、このよくできた美術品を鑑賞するのも悪くない。そう自分に言い聞かせ、手を離す。
「そういえば……どうして窓からまっすぐこちらを目指したのだ?」
手がかりの少ない場所を歩くのは、この狭い部屋の中でも迷子になりかねない。ルレイシアは、ああと零すような口の動きを示し、ゆっくりとまっすぐ……揺り椅子を回避しながら……テーブルに辿り着く。
『近道になるかと思いまして……』
すとんと椅子に腰を落とす。
『お腹が空いて、一刻も早く何かを食べたくなったんです』
無邪気な笑顔に、今度こそ根底から毒気を抜かれたオディオは深く深くため息をついた。