〜彷徨う記憶〜
それからも、ルレイシアは窓辺でじっとしていることが多かった。ぬくもりを求めて暖炉の側にあるソファに座ることもあったが、何故か窓辺の方を好んだ。
オディオ自身もまた、戯れに異界を彷徨い、腕に覚えがあると自負する戦士たちに戦いを挑んだり、この世界を元に戻そうと浅はかな正義感で迷い込んできた人間の相手をしてやることより、なんとなくこの部屋にいることが多くなった。
いつ記憶を、声を、光を取り戻すのか、それが今は何より待ち遠しいと思っていた。
しかし一向にその気配は無い。
相変わらず呼吸する音さえも聞こえず、記憶に関しては思い出そうとしても夢にすら過去のことが現れないという。
夢といえば、毎夜悪夢にうなされているのか、寝顔は苦悶の表情に委ねられ、夜中に……彼女にとっては何時なのか分からない時刻に勢いよく起きることも珍しくない。
彼女が来てこの方、寝台を譲り渡している身としてはもう少し静かに寝て欲しいものだと、オディオは夢のことを尋ねる。
『あの……森で襲われたときのこととか……誰かよく分からないのですけど、私を呪うような言葉を繰り返してくるのです……重くて、苦しくて……』
「相当恨みを買っていたようだな」
くくっと意地の悪い笑みが毀れる。見た目に反して……と心の中で付け加える。
誰からも恨まれるような性分には見えない。悪夢に身をやつしてまで彼女を呪い続けるというのであれば、よほど彼女に手ひどい目にあったのだろう。
(とすれば……見た目どおりか)
神秘的であり、愛らしい容貌は大半の男を簡単に虜にできるだろう。その彼女に想いが届かないとなれば、想いの深さの分だけ恨みも募ろう。
オディオの言葉に、はぁ、と落胆する。
『私、何をしてしまったのでしょう……早く思い出さないとオルステッド様が落ち着きませんね』
「私は関係ないだろう」
反駁するようなその言葉に、ルレイシアは少し照れたようにくすっと笑う。
気づいているのだ。
悪夢に突き動かされて目覚めたとき、時々ではあるがオディオが側まで来てこちらの様子を見ていることに。
オディオ自身は、ただ記憶が戻ったことを期待しているだけなのだが……おそらく。
世界は冬に閉ざされていても、昼夜は規則正しく訪れる。
その日、《魔王》に戦いを挑んできた名も無き戦士を丁重に迎えた後のことである。
夜の帳が落ち、部屋の明かりは数本の蝋燭と暖炉の光で満たされていた。かつては光の量とは裏腹にぬくもりの欠落した空間だったものが、暖かみを帯びたものに変化しているようだ。
よく見れば、ゴーストたちも主がいない間は客人を基準にしているのか、以前には見当たらなかった技巧を凝らしたランプなどがいくつか増えている。
(どうせ見えるわけではないというのに……)
ゴーストと成り果てても、主人に代わり、客人を過不足なく持て成すことが染み付いているのだろう。失礼があってはならないと気を配っている様子が見て取れる。
客人は……珍しくソファで丸くなって眠っていた。クッションを抱えてすやすやと眠る姿は幼子と変わらない無垢さに溢れている。
かちゃりと甲冑の擦れる音に気づき、ぱちりと目を覚まし、きょろきょろと辺りを伺うと、ぱっと顔を輝かせた。
『・・・・・』
ひらりと会釈する姿はどこかの貴婦人のように様になっている。何か言っていたようだが出迎えの挨拶だろうとそのままの流す。
ゴーストたちが素早くオディオの甲冑を外し、穢れを落とす。
そのうちの一人がそっとオディオに報告する。ゴーストたちの声はオディオに直接響くため、ルレイシアには届かない。
「オディオ様が不在の間、ルレイシア様を訪ねてくる輩がおりました」
ほぅと興味深げに眉を上げる。ルレイシアの耳に及ばないよう、オディオもまた心の声で返す。
「ヒトがいない間に男でも連れ込んだか? たいした貞淑ぶりだ」
それが実現不可能であることは承知している。ここは閉ざされた世界。闖入者はオディオの認識下にある。世界や時間を越えて生きた人間を呼び出すことは不可能だが、彼女ほどの魔力を持ってすれば、あるいは可能かもしれないと嗤う。
ゴーストはまるでルレイシアの名誉を守るかのようにゆらりと震え、強く否定する。
「いえ、生あるもので人間の形をしたものは……まるでオディオ様がここにいないことを察知したかのように、あの窓の外に無数の魔物どもや怨霊、悪霊の類が蠢いておりました」
「つい先ほどまで……オディオ様の帰還を察知したのかあっという間に次元の狭間に逃げてしまいました」
別のメイドが淡々と告げる。生前であれば真っ青になって震え上がっていただろう内容だが、今は死も生もない存在ゆえか怯えは無い。
「ルレイシア様も異常を感じられたのか……ずっとあのソファで震えておいででした。最前お休みでしたが、それも魔物どもの気配が消えたことに安心されてのことかと」
ちらりとソファを盗み見る。なるほど、窓から一番離れている。寝台に逃げ込むよりはいいというわけだ。
「それで、泣いていたというわけか」
「いいえ」
きっぱりと断言する。
「怯えて、震えてはいましたが……泣いているご様子はありませんでした」
気が強いのか弱いのか測りかねる態度に、さしものオディオも首傾げる。
「ルレイシア」
突然名前を呼ばれて、立ち上がる。ぽとりとクッションが落ちるが素早くゴーストが拾い上げ元に戻す。
「使用人どもが、お前を狙って魔物がきたと言っている。心当たりはあるか?」
この世界は自分が支配しているといっても、魔物どもは完全に支配しているとは言いがたい。奴らは本能のままに破壊を繰り返しているだけで、その力を利用するときにはただ力で抑えつけるだけのこと。知能の高い魔物たちは《魔王》の持つ力に心酔しついて来ている。
力に飢え、破壊を望む連中は、常に《魔王》の座と力を欲している。
彼女をオディオの弱みと見て拉致することはありえる。知恵の無い低級の魔物の考えそうなことと一笑に付す。
もっとも実現したところで弱みにはなりえない。ただ愉しみを奪われたことに対し、相応の報いを与えるだけだ。
ルレイシアはゆるく首を振ると、自分の体を抱きしめる。
『わかりません……ただ、私はずっと……そんな風に……そう、ずっと……』
くっと呻くように顔を歪め、そのまま崩折れる。
ぶんぶんと頭を振り、動揺するルレイシアの顔を無理やり上げさせる。そうでなくては言葉を見ることができない。
『思い出せません……でも、ずっと、私、狙われていた気がします。理由は思い出せません。でも、ずっと……ずっと……』
恐怖で戦く唇を読み取るのは流石に骨が折れた。
ゴーストどもも驚くほどの大量の魔性の気配に、並の神経が太刀打ちできるはずが無い。何が起きているのか知ることもできず、ただ窓の外からは怨嗟の声が響き渡る中、一人で耐えていたのだ。
それを「覚えている」という。それほどの魔物に常に狙われていたというのだろうか。
相当な恨みを抱えているとしか考えられない。
オディオは堪らなくなって快活に笑い出した。
無垢な魂が抱え込む憎悪。なんと甘美な響きか。
いつかそれを食らうことができるのかと思うと、彼女を寄越した《虚無》に、どれほどの礼を尽くせばいいのか、見当もつかない。
「いいものを拾った。本当に」
今だ笑いを収めないオディオに抗議の声を上げようとしたルレイシアを力任せに抱き締める。
その体は未だに震えている。よほど長い時間怯えていたのか、そこかしこが少し汗で濡れているのか分かったが、どうでもよかった。
「死ぬな。全てを取り戻すまで生かしてやる。絶対にだ」
守ってやる。その無数の魔物とやらからも、何もかも、自分と彼女を分かとうとする全てから。
最後にその死に顔を見るのは自分一人でいい。
『全てを取り戻した時、その時が貴方との永訣(わかれ)になるのですね』
・・・・・!
腕の中で、ルレイシアは何時しか眠りについていた。
幾日この部屋を空けていたか定かではないが、その間ほとんど食事も、睡眠も取れなかったのだろう。
最後に見たときより少しやつれていることに気づいた。
「今のは……幻聴か?」
涼やかな……歌うような……天上の竪琴と呼ぶに相応しい流れるような美しい声。
今のが、ルレイシアの声なのだろうか……?
そっと汗で張り付いた前髪を払いのける。暖炉の炎に照らされて、揺らめく光に浮かび上がる相貌は幻想的な美しさを湛えている。
もう一度聞きたい。
その願望は、死を齎すための一歩でなく……。