〜歌声〜

 オディオが部屋にいる間はゴーストたちのいう「無数の魔物」とやらは現れたためしがない。だがオディオの力で存在するゴーストたちに嘘をつく能力は無い。
 相変わらずルレイシアはのんびりと窓辺の日向ぼっこを楽しんでいる。
 メイドたちも生前を思い出したのか、ルレイシアに貴婦人の退屈しのぎとなるものをどこからか調達していて彼女に与えている。多種多様な香水であったり、編み物であったり……さすがに刺繍は針で怪我すると困るからと優秀なメイドたちは用意しなかったようだ。
 目が見えないながらも、慎重に数えながら編んでいるのか、不恰好ではあるが毛糸のストールを作り上げていたのには流石にオディオも驚いた。

 《魔王》としては不釣合いな平凡な日常。
 しかし時折抑えられなくなる破壊の衝動は、どこかで解放しなくてはならない。世界を、時間を越え、絶望と憎悪が渦巻く地に導かれ、力を解放する。

 無力な人間が血飛沫を上げて絶命する。その剣の一振りに、深紅の翼の一薙ぎに。
 彼本来の剣技は、剛の者であっても一合、二合と続けられるものではない。ごく稀に出会うことのある猛者でさえ、卓越した技の前に確実に絶命する。
 剣を振るう瞬間に走る、電流のような刺激がこの上なく心地よい。
 相対した人間にしてみれば、突然現れた死神のような騎士に出会った不幸を呪い、理由もなく殺され、彼を憎みながら死の国の旅立つことを余儀なくされる。
 己の死を受け入れることのできない魂は、不死者となり、再びオディオを狙うことがあっても、結局その魂をも絶対の魔力の前に粉々に砕かれる。
 ヒト以外の魔性の物と闘うこともあるが、相手にすると言っても、絶対的な魔力で支配し、屈服させることのほうが多い。人間に恐怖を撒き散らすための尖兵としては使い勝手がいい。
 時に、人間にしておくには惜しい資質を持つものに、新たな力を与えることもある。

 そして居城に戻ると……やはりルレイシアは一人、小さくなって震えていた。
 自分のいないときを狙う姑息な連中に飽き飽きするが、一度たりともその「敵」を見たことが無い以上手の打ちようが無い。
 やれやれとソファに腰を落とすとルレイシアは不安げな眼差しでオディオの気配を頼りにそちらを向く。
『お帰りなさい』
 儚さと健気さが共存した笑顔にオディオは短く応える。
「ここにいる限り、突破されることは無い」
 ぽんと幼子に諭すように頭を撫でる。
「不服か?」
 ふるふると頭を振る。
『分かっているのに……それでも怖いと思ってしまうのです。ごめんなさい。貴方の力を信じていないなんて、失礼ですよね』
 ここはオディオの結界の中。彼の力を突破できる魔物などそうそういるものではない。それでも自分に向けられる悪意に耐えかねて、恐怖している。

 信じて。

 厭な言葉だ。
 舌打ちしそうになるのを押さえ、立ち上がる。その腕を、そっと掴んで引き止められる。
『今日は使用人さんたちが素敵なワインを見つけてきたそうですよ』
 どうやって意思疎通を図っているのか分からないが、確かにテーブルには上物のワインが置いてある。
 言葉は通じなくても、主人の意思を汲み取ることに関しては一流の使用人たちだ。おそらく長居している客人も似たようなものなのだろう。
 いつものようにルレイシアの分だけ食事が用意され、オディオの前にはワインとそれにあうチーズだけが用意される。
 心底安心したような様子で、食事をする姿も、最初に来たときに比べると随分たどたどしさが無くなった。
 慣れてきてはいるのだろうが、それでも動作の端々の緊張感は拭えない。

 上物のワインを愉しみ、全身を覆う心地よい疲労感に委ねるままに揺り椅子に身を投げる。
 その傍らに、湯浴みを終えたルレイシアが静かに寄り添う。
 窓の外には珍しく月が覗いていた。
 真冬の冷たく冴え渡る空に浮かぶ月は、銀色の真円を描いている。

 静かな時が流れ、オディオですらその貴重な時間を愛おしく思えるほどだった。

 夢と現の境を揺らめく。
 ふと、何かを聞いたような気がした。それは数日前に聞いた、天上の調べ。
 夢だろうと振り払おうとして……はっとなりルレイシアの様子を伺う。彼女は空を見上げ、何か歌っていた。
 音も、何もない。
 しかし間違いなく歌っていた。月に向かい、届かない声で、静かに、朗々と歌い上げている。

「歌いたいのか」
 ぽつりと、重く、いつになく優しい声にルレイシアは振り返った。
「ずっと……お前は歌いたかったのか」

 確認しただけだった。
 だが、心のどこかを突かれ……ルレイシアはぽろぽろと泣き出した。
 どんなことがあっても泣かなかった女が、突然堰を切ったように泣き出したのを見て、ようやくという感もあったが……むしろ今まで泣かなかった理由を問いただしたくもあった。

 やはり女という生き物は分からない。

 声も、しゃくりあげる音さえも無く、ただぽろぽろと泣くルレイシアの背後に、ざあっと黒い影が立ち上る。
「!」
 すぐさま剣を取り、窓とルレイシアの間に割って入る。
 幾つもの憎悪と怨念の集合体……いや、一つでもあり、複数でもある魔性のものたちが、こちらを伺っている。爛々と輝く赤色の光が方々で明滅を繰り返す。烈風に似た音とともに吐き出される呼気は毒を含んでいるのか禍々しい風となって吹き付けている。
 恐怖を感じないはずのゴーストたちですら動揺している……今まで彼らが見てきたものとは段違いの量と質を持つ魔物たちなのだとその様子から伺い取れる。
 一方背後の女は……涙を乱暴に拭い、しっかりと敵を見据え、意識を集中させている。
 使い方を忘れたはずの魔法、封じられたに近しい力を振るおうと懸命になっている。戦おうとしている。
(守られるだけではない……か)
 いつか打ち砕いて見せると誓った「強さ」を改めて見せられて満足する。
 本来魔道士は盾になる存在を必要とする。おそらくこのような戦いは身体が覚えているのだろう。
 ……覚えるほどの戦いをしてきたというのだろうか……?
 彼女の過去の一端を垣間見れた。そして、「敵」の姿も。より愉しくなってきた。
「散れ、この俗物が……我が城に近づくだけでも罪と知れ……!」
 光の一閃。
 窓など簡単に突き破り、魔物たちを跡形もなく消し飛ばす。
 剣を収めるとゴーストたちが何事もなかったように窓の残骸を片付ける。剣の威力が立ち消え、一瞬だけ外気が侵入してきたが、オディオが軽く腕を振ると窓は元通りになった。
 
 ほっと緊張を解き、慌ててオディオの姿を求める。
「なんだ」
 傍らに膝をつくと、それを察知して腕を差し出す。恐る恐る腕を掴み、泣き出しそうな顔で尋ねてきた。
『お怪我はありませんか』
「ない」
 間髪をいれず答える。
「お前には自己保身というものがないのか?」
『ありますよ』
 さらりと言ってのける。
『きっと、今のように、貴方のような強い方と一緒にいたような気がします。でもどうしてそこまでして旅をしたりしていたのでしょうね?』
 それを聞きたいのはこっちだと、ギリっと歯を食いしばる。ふと、頬を撫でられた。
『嘘をついてはダメですよ』
 うっすらと切れていた頬を優しく包む。しばらくして……その傷が癒えた。
 血の匂いがしたのだろう。勘を頼りにその場所を探り当て……治した。
『こんな風に……でもどうして……』

 何故旅をしていたのか。
 何故今のように無数の魔物に狙われるのか。

 結局疑問だけが増え、何一つ解決に近づいてはいない。だが、癒しの魔法は思い出したらしい。
 そのことを聞くと違うと否定した。
『魔道士であれば、できること。おそらくこの力は記憶ではなく知識です。治したいと願うだけでできる、簡単な治癒魔法なんです』
 高度な治癒魔法となれば、やはり正しい手順を踏まえなければ実行できない。その知識は思い出せないし、使うにも力の大半が封じられている。
「今はそれで構わない」
 治った頬を撫でながら、窓の外を見やる。
 月は窓からは見えない位置にすっかり流れてしまった。
「構わない」
 もう一度、ぽつりと呟く。

 月だけが聞いた、天界の歌姫の声。

 もう一度、否、永遠に聞きたいと、切望する。

 こんな気持ちになったのは……そう、「生まれて」初めてだ。

 ことんと、オルゴールが流れ出した。ゴーストたちがルレイシアの心を慰めるためどこかから買い付けた骨董品だ。戦いの余波で床に落ちたそれをゴーストが拾い上げた拍子に鳴り出したらしい。
 ゴーストは慌ててオルゴールを止めようとしたが、それをオディオは制止する。
「捨て置け。勝手に止まる」
 非礼を詫びるように一礼し、ゴーストはオルゴールを丁寧に棚の上に戻す。
 どこか懐かしい旋律が夜の静けさの中に染み渡る。

 オルゴールの調べに、小さな歌声が乗る。
 囁くような、それでいてしっかりとした、優しい旋律が清流のように流れる。

「……いい歌だ」
 我知らずの内に呟く。途端に旋律が止まった。
「どうした。続けろ」
「あ……」
 小さく震えながら、口元に手をやる。
「声が……届いたのですね」
 今までに無い晴れやかな笑顔が蝋燭の光に照らし出される。
「届いたとは……奇妙な言い様だ」
 苦笑するオディオに、ふるふると強く首を振る。
「今までずっと……話しても、声が届かない感じだったのです。すぐそこまで声が来ているのに、出せないのではなく、届かない……届けられない……そんな感じだったのです……」
 今一つ理解できない。おそらく彼女自身の感覚なのだろう。
「これで残るは目と、記憶か」
 少なくとも唇を読むという労苦からは解放され、オディオは安堵する。一歩目標に近づいたという達成感と同時に、得ることのできた何か幸福感めいたものを訝しみながら。