御祭神・御神徳
八坂神社記碑
明治二十一年歳次戊子七月建
西道仙の書によるもので
寛永三年より祇園宮と称していたこと
寛永十五年に現在の地に移ったこと
明治元年に神仏の合祀が改められ、八坂神社となったこと
祭の様子
などが刻んであります。
三百年祭記念碑
八坂神社記碑
大正九年十一月廿五日建
1920年に建立された三百年祭の記念碑ですので、逆算すると1620年(元和6年)が神社の起源となります。
京都祇園社の御神霊を合祀し、祇園宮延寿院と称するようになったのは、その6年後の寛永3年です。
起源 | 長崎市今篭町に樹齢数百年を数える一老木があり。 いつの頃からか此の樹蔭に小石祠を設けて天王社と称し、霊験殊に著しとして里民の崇敬を集めた。 |
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寛永三年 (1626) |
長崎奉行の許しにより京都祇園社の御神霊をその天王社に合祀し、祇園宮延寿院と称した。 |
寛永十五年 (1638) |
当社参拝の老若日に数を加えたこと、人口の増加のため街膨張したことによりそれまでの敷地が狭隘となり、当時人家からは程遠い所であった現在の地に遷宮された。 |
寛文七年 (1667) |
東叡山上野寛永寺の末寺となり、天台宗寶珠山現應寺と称した。 |
元禄十五年 (1702) |
悪疫退散予防の神事を行い、神輿市内巡幸の儀を行った。 この行列に供奉すれば疱瘡を免れるとの信仰により、子を持つ親は幼児を抱いたり、背に負い幣を捧げて参加した。 |
明和三年 (1766) |
西古川町より出火した大火に際し、当社も難を免れず正殿、拝殿、庫理などを焼失し致命的損害を受けた。 |
安永二年 (1773) |
市中の町々や人々の寄附により再建された。 明和三年の大火の経験からそれまでの社地の上段を切り開き、土石を運び石壁を築きさらに壇を設けて神殿を建立した。 現在の境内地は大部分がその当時のものである。 |
明治元年 (1868) |
ながく祇園社と呼ばれていたが、明治維新の神仏分離に伴って、時の九州鎭撫総督澤宣嘉卿により八坂神社と命名された。 その年四月二十二日に澤總督も社頭に臨まれた上で盛大な復古祭典が行われ、その際には澤總督自らが手書された「八坂神社」扁額が奉納された。 |
明治十二年 (1879) |
社殿が改築がされた。 なお、神門は社殿に遅れること二十八年後の明治四十年に改築された。 |
明治四十年 (1907) |
長崎市に於ける幣帛料供進神社に指定された。 七月廿五日を大御食供進日と定める。 |