島原城の尺八について

 

(その16)平成23年1月9日、まとめ1 現時点でのまとめです。

(その15)平成23年1月8日、島原城一節切講演演奏会。 内容はクリック

(その14)平成16年4月29日、島原城虚無僧大会。 内容はクリック

(その13)平成16年3月27日(土)、島原城下を托鉢。内容はクリック

(その12)平成16年2月19日、長崎新聞に掲載されました。(記事内容と写真

   2月13日、長崎歴史文化協会の越中先生を訪ね、現状を報告、大変喜んでいただいた。

   翌日、島原城で長崎新聞社の取材、この機会に少しこれまでの経過をまとめておきたい。

(その11)平成15年10月21日、銘の写真届く

島原市の商工観光課、森さんから島原城の尺八の銘の写真が送られてきた。
歌口にも宜の字らしき銘の印があり、法橋宜竹の竹に間違いはなさそうだ。管尻にもある。
1655年に法橋に叙せられた宜竹より80年も古い。
ただ宜竹が何代もいたことは事実であり、歴史的に証明されている。
宜竹何世の作か、が問題となろう。

http://www1.cncm.ne.jp/~seifu/houkyou.htm

(その10)平成15年8月25日〜27日、小田原研修旅行。 内容はクリック

(その9)平成15年3月21日、小菅会長、島原城を訪ねる。内容はクリック

(その8)平成15年3月8日号、島原新聞に掲載 内容はクリック

(その7)小菅会長からの便り

待ちに待った「虚無僧研究会」小菅会長からの便りが届いた。


「法橋」銘の一節切作者として現在判明している人は2名、
「法橋宜竹」と「法橋是斎」である。
その中で丸に法橋の焼印を使用したのは宜竹(ぎちく)である。
ただ宜竹が法橋に叙せられたのは承応4年(1655)の4月7日であることから、
牧覚右衛門の尺八が天正10年(1582)持舟城で手に入れたという「極め書き」とは異なってくる。
また宜竹の一節切には全体に何巻もの樺巻きがしているそうだ。
覚右衛門の笛には何もしていない。

一方、原是斎は焼印を使用しないで、ウルシ書きで
「法橋是斎」と銘を書いているようだ。
原是斎が法橋に叙せられたのは慶安元年(1648)
すなわち製管師で法橋に叙せられた人はきわめて少なく、
宜竹などは「萬寶全書」によると「笛の元祖といへり」と
記されているほどの人物である。
芭蕉の句に「まずしるや、宣竹が竹に花の雪」と歌われたくらいの人なのである。
原是斎が作ったとされる一節切「紫鸞」は今も紀州徳川家の家宝として大事に保管されている。

宜竹や是斎、この有名人よりも古く、法橋を名乗った人がいたということは、すばらしい尺八史上の発見である。

そして松平重定が家宝として大事にしていた一節切尺八を
息子の牧覚右衛門が引っさげて、京都を托鉢した。
もつと昔の「法橋」とは一体、どんな人であったろうか?
ものすごいことになってきた。ロマン探求の道である。
ただの「牧さんの尺八」でないことははっきりした!

 

(その6)「島原城の尺八」島原新聞1面トップに掲載される。

記事によると新たに尺八の銘が「法橋」であることが判明した。

記事は 「こちら

 

(その5)平成15年1月2日、再び島原城へ

松平家家宝の秘刀「神気」と「神息」の特別一般公開が正月2日から島原城内で開催された。

ありがたいことに資料館のご配慮により「牧覚右衛門の一節切尺八」の特別展示コーナーも

新たにすぐ脇に設けていただき、記念にその展示コーナーの前で一節切尺八の演奏を

やらせていただけた。

お蔭様ですばらしい新年の幕開けとなった。

 

会場には松尾卓次先生、資料館関係者、島原市教育委員会の関係者、

それに「がまだすコンビ」の永尾夫妻も見えられ、特別に撮影を許るされ、

記念の写真を撮っていただいた。あとからご隠居さんも駆けつけた。

 

また、先日一節切の寸法を取って戴いていたので、「牧家の一節切の写し」を資料館に

寄贈させていただいた。来館者の中で一節切を吹いて見たいといわれる方の為に

そっくりに完成したので、いつでも試めし吹きができるように、との配慮のつもりである。

 

一休禅師の「紫鈴法」を一節切で演奏する静風  一節切尺八の説明に見入る来館者

今回寄贈した静風作「牧覚右衛門の一節切写し」ケースの中が本物である。

 

(その1)

昭和5年発行「郷土読本 杜城の花」中の

「尺八笛と松平好房公」(牧氏家乗、深溝紀略、口碑)より

私なりの解釈を加えて、記載している。

 

いま島原城の本丸に1本の尺八が展示されている。

実は松平忠房公の忠臣、牧角右衛門(晩年覚右衛門との記述が多い)の

牧家に伝わる家宝の尺八である。

 

忠房公の長子、好房公は1650年頃に生まれた人で、世に孝子の鑑と

仰がれ、本朝孝子伝、並びに昭和の初めの小学校修身書に載せられていた

人であるが、その生母は忠房公の側室で京都から召された方であった。

が、意に添わぬことがあり、京都へ帰ってしまった。

しかし懐妊しており、まもなく玉のような男子を分娩した。

忠房公は大変喜び、この公子を引きとろうと画策したが、拒まれ失敗、

どうしようもなく重臣の牧角右衛門重是に「我が子をなんとしても連れ

て帰ってくれ」と頼んだ。

牧角右衛門は直ちに京都に上がり、虚無僧となり3年間、生母の家を

尋ね、嘆願し続けた。しかし、3年間の努力の甲斐もなく、何の進展も

ないある日、ついに最後の覚悟を決め、「このまま帰っても主君に会わ

せる顔がない、迷惑であろうけれど、この場で腹を切らせて頂きたい」

と切腹しようとする。

この姿に心を打たれ、生母は遂に好房公を手放し、公は江戸に赴くことと

なり、のちに世子となり、世に「孝子の鑑」と仰がれるようになった。

そして、父忠房公が寛文9年6月に島原に移封されるのと同時に、21歳の

若さで早世した。花咲く間もなく散った芳薫の公子、松平好房公と誠忠

牧角右衛門のはかなくも美しい物語を1本の尺八が語っている。

 

ところで博多一朝軒に同じ牧姓の牧新七という虚無僧がいて、

わが一朝軒派の中心をなす人であるが、今回の牧角右衛門一家となんらかの

関係があるのだろうか。興味深い話である。

 

忠房公が島原城入りしたのが1669年、

長崎玖埼寺(のちの松壽軒)が創建されたのが1640年、

玖埼寺はくしくも長崎、島原、天草、大村を管轄していた。

そして松平家といえば徳川家とは最も近い姻戚である。

 

長崎には島原町もあり、島原城主の最大の任務は長崎代官の見張りである。

40日に一度、島原城主は長崎入りしていたと聞く。

頻繁に長崎と島原との尺八往来もあっていたに違いない。

牧一族も長崎に来て、玖埼寺に立ち寄っていたのでは、と想像すれば実に楽しい。

 

(その2)

ご隠居さんと島原城資料館を訪問

平成14年11月23日にご隠居さんの案内で島原城を訪ねた。

島原城の資料館は基本的に写真の撮影は禁止である。

もちろん尺八展示のケースはほとんど開けられる事はない。

尺八に直接触れる機会はこれまでまずなかったのである。

「松林さん、今日は特別ですよ」ということで

島原城資料館主任研究員の松尾卓次先生から直接現場で説明を戴き、

特別に「牧角右衛門の尺八」を吹かせていただいたが、とても素晴らしい音色で、

もう何年も吹いていない尺八とは思えなかった。

寸法も測っていただいたが、全長は33.3センチ、外徑は2.5センチ

上節側が12センチ、下節側が21センチであった。

手孔は管尻から 7.7センチ、4センチ、4センチ、4センチ、3.2センチ

裏孔の横に製作者銘が彫っているが、残念ながら判明しにくかった。

 

島原城天守閣前でご隠居さんと     陳列ケースの前で松尾卓次先生と

 

牧家の尺八陳列の様子            試奏する静風

 

牧角右衛門の一節切尺八                 「銘」があるが読めない

 

(その3)

虚無僧研究会 小菅会長からの手紙

拝復歳末の候―――(中略)

さて、先般島原城の「牧覚右衛門の尺八」のご案内を戴き、

ご返事せぬままでおり失礼仕りました。

このことにつきましては、私も千葉市在住の増山博巳様より4年ほど前に

情報を戴き、牧新七との関係如何と思い、一度じっくり調査をと思って

興味を持っておりましたが、なにぶん遠方のこととて、実物をまだ

拝見いたしておりません。

この増山氏も平成12年4月に亡くなられまして、いろいろな資料を

私に送ってくれたのは、死期を覚悟して研究を委託されたのかと思い、

少々責任を感じておりました。

その折、増山氏より戴いた書簡と資料がありますのでご参考までに

コピーを同封致します。

是非貴師が論文を発表していただきますとあり難い、と思っています。

(後略)

 

資料−1、増山博巳様からの手紙

(前略)

島原城に陳列してある牧覚右衛門の尺八に関して1、2確認できましたので

お知らせ致します。

昨年10月、家内が長崎ヘ参りましたので島原まで足を延ばさせました。

事前に電話でお城の管理室に「手にとって見させてもらえるか」尋ねました所

「そういうお願いには応じられない。他の人に対しても収集がつかなくなるから」

ということでしたが、遠方からわざわざ行くのでと無理をいって了解を取りました。

それでも写真は一切ダメということでした。撮ってよければ接写などしたかったのですが、

以上のような経緯でしたが、次ぎの点が確認できました。

たいしたことではありません。

(1)天口部  歌口に水牛その他のはめ込みは何もない。外径2.5センチ

        歌口の形状―――天吹ではない。尺八と同じ外側を削り落としている。

(2)管内の塗りは全くない。

(3)管長33.3センチ

(4)地口の外径2.5センチ、内径1.8センチ

(5)本当に寛文時代(1661〜73)のものか?

   そばに陳列している書状は寛文9年12月15日の日付のものである。

   主君松平忠房から牧覚右衛門宛のものである。

(6)実は尺八の下に古文書が敷いてあり、これに牧覚右衛門使用の証拠になる

   言葉が書いてあると思われるが読み忘れた。

(7)牧家系図を見ると覚右衛門を名乗る人は2人いるが、もう一人の覚右衛門は

   幕末の人である。

(8)写真はこの前送りましたが、一節切に間違いありません。

(9)譜のようなものがなかったか、は聞き忘れた。

 

資料―2、追而

牧覚右衛門の一節切について

寛文9年(1669)は松平忠房が福知山から島原に移動した年です。

牧覚右衛門はこの時92歳ですから到底尺八は吹けなかったでしょう。

したがってこの一節切は福知山時代のものでしょう。

あるいはその前の三河刈谷時代のものかもしれません。

なにしろ覚右衛門は97歳まで生きた人ですからこの竹は17世紀前半の

ものということになります。

島原城では単に藩士が愛用した古い尺八ということで陳列しているのだと

思いますが、細工がしていない、一節切は案外尺八史上貴重なものかも

しれません。

牧家家系図の写真は非常に小さい字ですが、ルーペで見ますと

「牧覚右衛門重是 母松平氏の女也、延宝2甲寅11月13日卒、行年97歳」

と明瞭に読み取れます。

 

(その4)

再び島原城へ

小菅先生からの手紙、そして増山さんの資料を戴いたので

早速松尾卓次先生に電話して、今日のアポイントを取った。

増山さんが知りたかったいくつかの疑問点についてもう一度

先生にお尋ねしたかったからである。

午前中に島原に到着、先生は小学生のグループを案内中であった。

その後、やっと時間がとれ、島原城の尺八の出所を記した書物の

コピーをお願いし、戴いた。

「天正10年、壬午、持舟城ニ而得一節尺八  重定」

「慶安ニヨリ同年3ヵ年、此尺八ヲ以京都空居

     尺八切能?口伝謹可申傳者也    重是」

天正10年は1582年であり、慶安2年は1649年である。

持舟城は静岡県静岡市用宗にあり、もともと今川氏の城である。

後に武田信玄の支配下になった。

天正10年といえば徳川家康がこの持舟城を陥落させた年である。

また織田信長が明智光秀によって本能寺で殺された年でもある。

 

つまりこの尺八は牧覚右衛門が直接手に入れたものでなく、

牧覚右衛門の父君、松平太郎左衛門重定公が1582年に「持舟城」で

手に入れた尺八を覚右衛門が譲り受け、京都で3年間、

吹いたものとの記述である。

 

松平太郎左衛門家といえば、家康の直系で「葵の紋」である。

家康の8代前、初代の松平太郎左衛門親氏のとき初めて「葵の紋」と

なり、遂に将軍家康を輩出した家柄である。

牧覚右衛門の父、重定が太郎左衛門名を名乗ったことは興味深い。

 

松平太郎左衛門重定の祖父、松平大炊助忠定は初代深溝城主であり、

牧覚右衛門は初代深溝城主忠定から数えて4代目の子孫となる。

ちなみに島原城主の忠房の高祖が松平好景であり、忠定と兄弟である。

なお、家康との関係は下図の通り

世良田親氏―松平泰親―信光―親忠―長親―信忠―清康―広忠―家康

              忠景―忠定―定清―重定―重是=牧覚右衛門

                 好景―伊忠―家忠―忠利―忠房

 

さて天正10年から10年ほど前、正元元年(1573年)には

武田信玄が三河の野田城で村松芳林奏でる一節切の音に聞き惚れ

砲弾が命中、深手を負ったことで有名であり、戦場でもしばしば

奏せられたようである。。